【弥陀の誓願】歎異抄(たんにしょう)第一条を私訳・わかりやすく解説

  • URLをコピーしました!

本記事は、歎異抄(たんにしょう)の第一条を現代語訳で私訳し、解説したものです。

ぼくなりの視点と解釈で、親鸞聖人と唯円が会話しているような様子で表現してみました。

歎異抄をこれから学びたい方にとって、非常に有益な内容となっています。

ヨシボウ

ぜひ、参考にしてみてください

それでは、始めていきましょう🎵

この記事を書いた人
ヨシボウ
  • 浄土真宗本願寺派の現役僧侶
  • ブログ歴3年、5サイトを運営
  • 趣味はブログと読書
  • 最新技術(AI、メタバース)などに関心アリ

@yoshi_bows

目次

歎異抄(たんにしょう)第一条を現代語訳でわかりやすく私訳

歎異抄 親鸞聖人 唯円 阿弥陀如来 念仏

ぼくなりの視点と考え方で、第一条を会話形式かつ現代語訳で私訳してみました。

誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽のコメントをいただけると嬉しいです。

本記事の登場人物
親鸞聖人
  • 浄土真宗の宗祖

  • 法然聖人を師と仰ぐ

  • 1173年5月21日〜1263年1月16日
唯円さん
  • 親鸞聖人のお弟子さん

  • 歎異抄の著者とされる

  • 1222年〜1289年2月27日
親鸞聖人

唯円よ。
わたしは阿弥陀さまの誓いが、本当にすごいものだなぁと思っているんだよ。

阿弥陀さまは、すべての人を救うと約束してくださった

親鸞聖人

こんなにありがたいことはないだろう。

唯円

しかし親鸞さま、私たち何もしなくてもよいのでしょうか?

親鸞聖人

阿弥陀さまを信じて、「南無阿弥陀仏」って称えるだけでいいのだよ。
そうすれば、必ず極楽浄土に生まれさせていただけるのだ。

唯円

それだけでよいのでしょうか?
本当に他にはなにも必要ないのですか?

親鸞聖人

ないんだ。
阿弥陀さまは、お年寄りも若い人も、いい人も悪い人も、みんな平等に救ってくださるのだ。
大切なのは、ただ信じることだけなんだよ。

唯円

でも、私、悪いことをしたこともあります…   

親鸞聖人

大丈夫。
阿弥陀さまは、罪深い人や激しい煩悩に悩まされている人たちこそを助けたいって思っておられる。
だから、他に善いことをする必要もないし、悪いことを恐れる必要もないんだ。

唯円

なんともありがたい仏さまなのですね。

親鸞聖人

その通りだな。
「南無阿弥陀仏」とお名前を称えること以外、ほかのどんな善行も必要ない。つまり、、、

お念仏に勝る善はない

親鸞聖人

ということになる。
阿弥陀さまの願いは、どんな悪であっても妨げられることはないのだよ

第一条の原文を現代語訳で書き下し

弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころの おこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。

そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。

しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。

悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと云々。

>>>浄土真宗本願寺派 総合研究所データベースより引用

歎異抄(たんにしょう)第一条のポイントである「弥陀の誓願」とは?

歎異抄 親鸞聖人 唯円 阿弥陀如来 念仏

第一条のポイントは、冒頭に出てくる「弥陀の誓願みだのせいがん)」ということばに集約されるでしょう。

「弥陀の誓願」をわかりやすく言い換えてみると、

阿弥陀さまが心から願っておられること

と、表すことができるでしょう。

その願いというのは、

すべての人を救いたい

ということ。

性別や、年齢、生まれた場所など、一切関係なく救いたいと願われました。

阿弥陀如来という仏さまは、慈悲に溢れたお方なのです。


願いの始点は阿弥陀さま

歎異抄 親鸞聖人 唯円 阿弥陀如来 念仏

一般的に「願い」といえば、多くの方が”わたしの頼み事”と捉えておられるのではないでしょうか?

わかりやすいイメージでいうと、宮参りです。

神社に行って、

  • 健康でありますように
  • 商売がうまくいきますように
  • 宝くじがあたりますように

など、あなたが思っていることを神さまにお願いしますよね。

仏教に置き換えてみると、こちらの図のようなイメージになるでしょう。

歎異抄 親鸞聖人 唯円 阿弥陀如来 念仏

しかし、弥陀の誓願とはそのことばの通り,阿弥陀如来の願いなのです。

なので、

ヨシボウ

矢印の向きが”逆”になるんですよね

歎異抄 親鸞聖人 唯円 阿弥陀如来 念仏

私たちが「救ってください、お願いします」と願うのではなく、すでに阿弥陀さまが「救いたい」と願っておられるということ。

これほど、ありがたいことはないですよね。

願いの始点は阿弥陀さまであることを、こころに刻んでおきましょう。

私たちにできるのは、お念仏のみ

歎異抄 親鸞聖人 唯円 阿弥陀如来 念仏

「南無阿弥陀仏」と称えることは、故人のためでもなく、仏さまのためでもありません。

私の口から、うれしくて溢れてくるものです。

なぜなら、

阿弥陀如来は、いま目の前にいる、あなたを救いたいと願われたから

願いを疑いなく信じ、お念仏をいただく(お名前を呼ぶ)ことが、私たちにできる唯一のことです。

親鸞聖人は「弥陀の誓願」ということばに、計り知れないよろこびを込められたことでしょう。

歎異抄(たんにしょう)第一条についてのまとめ

歎異抄 親鸞聖人 唯円 阿弥陀如来 念仏

以上、歎異抄の第一条を会話形式で私訳し、要点を解説してみました。

第一条だけあって、唯円が一番伝えたかったことを書かれたのではないかと考えています。

さいごにまとめると、

  • 阿弥陀さまが救いたいと願っておられる
  • 年齢も性別も一切関係なく平等に救われる
  • 煩悩を抱えたまま、ありのままの姿で良い

この3点に集約するのではないでしょうか?

ヨシボウ

まさに、浄土真宗の真髄といえますね

何度も読み返し、こころに刻み込みたいものです。

この記事を書いた人
ヨシボウ
  • 浄土真宗本願寺派の現役僧侶
  • ブログ歴3年、5サイトを運営
  • 趣味はブログと読書
  • 最新技術(AI、メタバース)などに関心アリ

@yoshi_bows

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次