【悪人正機】歎異抄(たんにしょう)第三条を私訳・わかりやすく解説

歎異抄 親鸞聖人 唯円 悪人正機
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本記事は、歎異抄(たんにしょう)の第三条を現代語訳で私訳し、解説したものです。

第三条は、歎異抄のなかで最も有名な「悪人正機(あくにんしょうき)」についてのお話。

浄土真宗の代表的な思想の一つです

悪人正機の考え方は、今も昔も誤解を招きやすく、単に「悪い人が救われる」というものではありません。

かといって、「善人は救われない」というものでもないのです。

悪人正機を正しく知るには、「善と悪」についてしっかりと理解する必要があります。

本記事で原文を私訳し、わかりやすく解説しますね。

ヨシボウ

ぜひ、さいごまでお付き合いください

それでは、始めていきましょう🎵

この記事を書いた人
ヨシボウ
  • 浄土真宗本願寺派の現役僧侶
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  • 趣味はブログと読書
  • 最新技術(AI、メタバース)などに関心アリ

@yoshi_bows

目次

歎異抄(たんにしょう)第三条を現代語訳でわかりやすく私訳

歎異抄 親鸞聖人 唯円 悪人正機

ぼくなりの視点と解釈で、親鸞聖人と唯円が会話しているような様子で表現してみました。

誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽のコメントをいただけると嬉しいです。

本記事の登場人物
親鸞聖人
  • 浄土真宗の宗祖

  • 法然聖人を師と仰ぐ

  • 1173年5月21日〜1263年1月16日
唯円さん
  • 親鸞聖人のお弟子さん

  • 歎異抄の著者とされる

  • 1222年〜1289年2月27日
親鸞聖人

唯円よ、私はね、

善人でさえ救われるのだから、悪人であれば”なおさら”救われる

親鸞聖人

と、思っているんだよ

唯円

私もその通りだと理解しています。
しかし親鸞さま、世間の人々は逆のことを考えてしまうのではないでしょうか?

悪人でさえ救われるのだから、善人であれば”なおさら”救われる

親鸞聖人

うむ。
そのように聞くと、いかにも正論のように聞こえてしまうな。
しかし、この考えだと阿弥陀さまの本願とはかけ離れてしまうんだ。

唯円

本願、阿弥陀さまが「我に全てをまかせよ。必ず救う。」と仰ったことですか?

親鸞聖人

善人とは、自分の善い行いの見返りによって往生を目指す人を指す。
そのような傲慢な方が、阿弥陀さまに全てをまかせようとするだろうか?

唯円

確かに、そんなことを考えるとは思えないです。
しかし、阿弥陀さまは”全ての人を救いたい”と願われたはず。

親鸞聖人

そうだ。
だから、善人であっても、自分の心に気づき、”阿弥陀さまにおまかせするしかない”と改めることができれば、阿弥陀さまは必ず救ってくださるだろう。

唯円

私たち人間は、どのような修行をしても、次々に煩悩が湧き起こり、生きることに苦しみ、いのち終わっていくことを恐れてしまいます。

親鸞聖人

阿弥陀さまはそんな私たちをあわれみ、「なんとかして救ってやりたい」と願われたんだ。

唯円

どうしようもない自分に気づき、「阿弥陀さまにおまかせするしかない」というこころの持ち主こそ、阿弥陀さまは真っ先に救ってくださるのですね。

親鸞聖人

私たちはみんな悪人なのだ。
煩悩を抱え、他のいのちをうばって食す。
根源的な悪と無縁の人生は生きられないんだよ。だから、

傲慢な善人でさえ救われるのだから、悪人であれば”なおさら”だ

親鸞聖人

とあえていうのは、そんな意味があったんだよ

第三条の原文を現代語訳で書き下し

善人なほもつて往生をとぐ。
いはんや悪人をや。

しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なを往生す。いかにいはんや善人をや。」この条、一旦そのいはれあるに似たれども本願他力の意趣にそむけり。

そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。

よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

>>>浄土真宗本願寺派 総合研究所データベースより引用

歎異抄(たんにしょう)第三条「悪人正機」を解説

歎異抄 親鸞聖人 唯円 悪人正機

私たちはみんな悪人だ

と仰った親鸞聖人。

いやいや、わたしはべつに悪いことをしたことないし、悪人じゃないよ!

と思われた方もおられるのではないでしょうか?

悪人正機を正しく理解するためには、「善と悪」について知る必要があります。

哲学っぽくて、むずかしそうに感じる方もおられるかもしれませんね。

ヨシボウ

超かみくだいて解説しますので、ご心配なく

詳しく見ていきましょう。

一般的な善悪の判断とは?

歎異抄 親鸞聖人 唯円 悪人正機

テレビのニュースやSNSでは、毎日とても残念な事故・事件が報じられています。

なんて悪いヤツだ、、、

と、容疑者に対して心の中で「悪人」のレッテルを貼ってしまう方もたくさんおられるでしょう。

ヨシボウ

ぼくもよくあります。。

私たちは目に入った情報だけで、善悪の判断をしてしまうのです。

容疑者が起こした事案に至るまで、誰もが同情できるような辛い過去があったのかも知れません。

もしも自分が容疑者の立場であれば、同じことをしていたのかも?なんてことも、意外と多かったりします。

私たちのこころは、縁(きっかけ)さえあれば、どんな罪でも犯してしまう可能性を持っているのです。

そんな私たちですから、誰のことであっても「オマエは悪人だ」と言える権利はないんですよね。

いわば、誰もが悪人になる資質を持っているわけですから。

私たちは自分の都合で善悪を判断する

歎異抄 親鸞聖人 唯円 悪人正機

ここまでお伝えした内容は、あくまでも「私たちの目線」です。

善悪の判断をするにも、そこには必ず「主観」が入りますよね。

ヨシボウ

人によって考え方が違えば、とうぜん善悪の判断も変わってくるわけです。

具体例を挙げて考えて見ましょう。

太郎くん二郎くん三郎くんという3人がいたとします。

太郎くん三郎くんのことについて二郎くんと話をしていました。

三郎くんって、めっちゃいい人だよね。
話も面白いし、いっしょにいて楽しい!

すると二郎くんは、

え?そうかな、、、?
ぼくはどちらかといえば苦手かも。
話にくいし。。。

なんて状況、よくありますよね。

それぞれの”都合”によって、善悪の判断しているわけです。

整理すると、

  • 太郎くんにとって三郎くん都合の良い人
  • 二郎くんにとって三郎くん都合の悪い人

となり、極端に言えば、

三郎くん善人でも悪人でもある

ということになってしまいます。

私たち目線で考えると当然の結果。

ヨシボウ

決して平等とは言えませんよね

仏教という大きなくくりで考えるなら、善悪の判断は平等でなければ具合が悪いです。

では、

平等に判断するにはどうすれば良いか?

答えはかんたん。

目線を一つにすれば良いのです。

阿弥陀さま目線で考えてみる

歎異抄 親鸞聖人 唯円 悪人正機

阿弥陀さまの目線であれば、判断は一つになります。

阿弥陀さまは、目に見えるものだけで判断されるのではありません。

もっと深〜いところを見ておられるのです。

私たちのこころの奥のおく。

生まれたての私たちのこころは、みんな同じように無色透明の透き通ったものであったはず。

歎異抄 親鸞聖人 唯円 悪人正機
ヨシボウ

そのこころは、環境や人、思想などによって人それぞれの色に染まっていきますよね

ときには、世間から揶揄されるような悪に染まってしまうことさえあるのです。

こころはとても移ろいやすく、染まりやすいもの

そんな危なっかしいものを持ち合わせているのが、私たちなんですよね。

阿弥陀さまは、そんなこころのありさまを全てを見通したうえで、すべての人を救いたいと願われました。

罪を犯したことのない人でも、罪を犯してしまうかもしれないこころを持っているんです。
罪を犯してしまった人でも、元々は清らかな美しいこころを持っていたんです。

阿弥陀さまから見れば、どちらも同じこころの持ち主なんですよね。

悪と無縁の人はいない

歎異抄 親鸞聖人 唯円 悪人正機

世のなか、素晴らしい人、優しい人がたくさんおられます。

ヨシボウ

ぼくが今まで出会った人のほとんどは善い人でした

でも、そのような方であっても、悪と無縁の方はゼロ

あなたは、

  • ウソをついたことはありませんか?
  • 人を傷つけたことはありませんか?
  • 欲に目がくらんだことはありませんか?
  • 自分勝手に行動したことはありませんか?

一つでもあてはまれば、立派な悪人ですw

まして、私たち人間は動物や植物、他の生き物のいのちを奪ってしか生きていけません。

これも、罪と言えば罪、悪と言えば悪でしょう。

つまるところ、

私たちはみんな悪人なのです

親鸞聖人が「みんな悪人だ」と仰ったことが、ご理解いただけたのではないでしょうか?

でも、”悪人だからダメ”というわけではありません。

ヨシボウ

そういうこころを抱えているということを認知するのが大事なんです。

自分のことを正しく理解し、阿弥陀さまに全てをおまかせしようというこころの持ち主こそ、もっとも救いの対象になる

これが、悪人正機の真相です。

悪人正機説と性悪説の違い

ここまでお読み頂いた方の中には、哲学に明るい方もおられるのではないでしょうか。

悪人正機説とよく似たニュアンスの「性悪説(せいあくせつ)」という思想があります。

悪人正機説と性悪説は、ともに人間の本質を「悪」という観点から捉えていますが、そこから導き出される結論は大きく異なるのです。

悪人正機説については、前述のとおり。

性悪説について解説し、二つの思想を比較していきます。

性悪説の基本的な理解

性悪説を提唱したのは、中国の荀子(ジュンシ)という思想家です。

性悪説は、

人間は生来、悪に傾きやすい性質を持っており、善人に生まれてくるわけではない

とする考え方です。

人間の本性は「悪」であるとされますが、ここでいう「悪」は必ずしも「悪い」ではなく、「正しくない」または「弱い」という意味合いを持ちます。


荀子は、人間は生まれつきの性質に従うと争いや無秩序が生じるため、教育や努力によって善を目指す必要があると主張しました。

善行は自然に発生するものではなく、後天的な努力の結果として得られるものとされます。

このように、性悪説は人間の本質について悲観的な見方を示しつつも、教育や努力によって改善可能であるとする思想です。

悪人正機説と性悪説の比較

以上のことを踏まえて、悪人正機説と性悪説の違いを比較していきましょう。

アプローチの違い

  • 悪人正機説→教育や改善を超えた救済を説く
  • 性悪説→教育による改善を重視

人間観の違い

  • 悪人正機説→自身の悪を知ることが救済の契機
  • 性悪説→悪は克服すべき対象

目指すべき方向性の違い

  • 悪人正機説→自力の放棄と他力への帰依
  • 性悪説→教育による善への変容

以上の3点がおもな違いとなるでしょう。

悪人正機説と性悪説は全く別ものです

悪人正機説と性悪説は、一見すると矛盾する人間観を示しているように見えます。

しかし、両者は人間の本質を深く見つめ、それぞれの方法で救済や改善への道筋を示そうとした点で共通しています。

現代社会において、これらの思想は自己理解と他者理解の両面で、なお重要な示唆を与え続けているといえるでしょう。

人間の不完全さを前提としながら、そこからいかに救済や成長への道を見出すか。

この古くて新しい問いに対する両思想からの答えは、現代を生きる私たちにとっても、深い示唆に富んでいると言えます。

歎異抄(たんにしょう)第三条についてのまとめ

歎異抄 親鸞聖人 唯円 悪人正機

以上、歎異抄の第三条を会話形式で私訳し、悪人正機について解説してみました。

さいごにザッとまとめると、

  • 人はみな、悪人である
  • 悪人であることを認知することが重要
  • そんな悪人こそが真の救いの対象である

上記の3点が、悪人正機を理解する上で重要なポイントとなるでしょう。

悪いことをした方が、阿弥陀さまは喜ばれる

というわけではないので、ご注意を。

また、善人を否定するわけでもありません。

善人であれ、悪人であれ、自分のこころを明らかに見極めることが重要なんです。

ヨシボウ

あなたもぜひ、ご自身のこころを見つめ直してみてくださいね

さいごに一つ質問をさせてください。

あなたは、自分のことを悪人だと思いますか?

この記事を書いた人
ヨシボウ
  • 浄土真宗本願寺派の現役僧侶
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