本記事は、歎異抄(たんにしょう)の第五条を現代語訳で私訳し、解説したものです。
第五条は供養のお話。
供養と聞けば、わりと身近に感じる方も多いのでは?
お葬儀やご法事など、一度くらい参列された方も多いでしょう。
第五条の内容は、人によっては期待を裏切るショッキングな内容となるかもしれません。
もったいぶらずにお伝えすると、親鸞聖人は冒頭部分で
両親の供養のために念仏を称えたことは一度もない
と、仰るからです。。。
本記事で、その真相をわかりやすく解説しますw
ぜひさいごまでお付き合いくださいね🎵
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歎異抄(たんにしょう)第五条を現代語訳でわかりやすく私訳
ぼくなりの視点と解釈で、親鸞聖人と唯円が会話しているような様子で表現してみました。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
- 浄土真宗の宗祖
- 法然聖人を師と仰ぐ
- 1173年5月21日〜1263年1月16日
- 親鸞聖人のお弟子さん
- 歎異抄の著者とされる
- 1222年〜1289年2月27日
唯円よ、私はね
亡き両親の供養のために、念仏を称えたことは一度もない
はい。
私には理解できます。
今一度、理由をお聞かせいただけますか?
そうだな。
まずもって生まれ変わりを繰り返してきた私たちは、みんな家族のようにつながっている。
つまり、皆が親であり、兄弟のようなものであると仰るのですね?
そうだ。
阿弥陀さまからたまわる念仏によって、仏とならせていただければ、それぞれが互いにたすけ合うことができるだろう。
もちろん、両親だけでなく”すべての人を”だ。
念仏が”自分の努力や修行によって出てくるものだ”と考えている人であれば、念仏によって両親を救うこともできるのでしょうか?
そのように考える人であれば、自力の念仏で両親の供養もできるかもしれないな。
しかし、ほんとうの念仏はそういうものではない。
つまり、自分の力に頼る自力の念仏では誰も救うことはできない、と?
私はそう考えている。
阿弥陀さまのお力によって、浄土で悟りを開くことができたなら、どんなに生まれ変わりを繰り返し、苦しみを抱える人であっても救うことができるだろう。
なるほど。
誰かを救えるようになるのは、仏と成らせていただいた”あと”であるということですね?
そうだ。
そのときに、まず身近な両親・家族を救うことができると考えるとよいだろう。
第五条の原文を現代語訳で書き下し
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。
そのゆへは、一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり。
いづれもいづれもこの順次生に仏になりてたすけ候ふべきなり。
わがちからにてはけむ善にても候はばこそ、念仏を廻向して父母をもたすけ候はめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもって、まづ有縁を度すべきなりと云々。
歎異抄(たんにしょう)第五条を解説
両親の供養を願って念仏を称えたことは、一度たりともない
親鸞聖人の衝撃のカミングアウトで始まる第五条。
えぇ?マジっすか?!
と、驚かれた方もおられるのではないでしょうか?w
しかし、ほんとうに驚くべきはその理由です。
親鸞聖人のお答えは、
なぜなら、生まれ変わりを繰り返してきた私たちは、もともと親兄弟のようなものだからだ
・・・・・
これ、ロジックが繋がりませんよね?w
この文章だけで繋がる方は天才ですw
では、親鸞聖人はどのようなお考えでこのようにお答えになったのか?
ぼくなりに思考して解説してみますね。
自力の念仏ではだれも救えない
第五条を読み進めると「自力の念仏」ということばが出てきます。
第四条の記事でも解説しましたが、自力の念仏では、誰ひとりとして救うことはできません。
そもそも、念仏は私たちが誰かを救うために称えるものではないのです。
念仏は、わたし1人を救うために阿弥陀さまが届けてくださったもの
なので、親鸞聖人のご両親は阿弥陀さまのおはたらきによってすでに救われているはずなんですよ。
少し角の立つ表現になりますが、供養をする必要がそもそもないということになります。
誰か救えるのはわたしが仏となったあと
私たちはいつか必ずこの世を去らなければなりません。
そのときは、阿弥陀さまが”必ず救い、仏と成らせる”と約束してくださいました。
ホントにありがたいことですよね
仏になるということは、阿弥陀さまと同等のはたらきができるようになるということ
阿弥陀さまは、大きく分けて以下の2つのはたらきがあります。
- 往相回向(おうそうえこう)
- 還相回向(げんそうえこう)
字だけ見ると超難しく感じますよねw
往相回向とは、私たちを往生させるはたらきです。
阿弥陀さまの”すべての人を救いたい”という願いそのものですね。
還相回向とは、仏となった私たちをお浄土からこの世に戻すはたらきです。
仏となってはじめて、この世で救済活動が可能になるんです。
しかもそのときには、阿弥陀さまと同等の知恵と慈悲を備えています。
すべてのいのちを等しく見れるようになっている
ということなんですよね。
(*具体的にどのように救うのか?については別記事で解説予定)
仏目線で見ればみんな兄弟
ようやく親鸞聖人のお答えに近づいてきましたw
仏となって、生まれ変わりを繰り返してきたすべてのいのちを見れば、み〜んな繋がって見えるんです。
数えれないご先祖の元をたどっていけば、人類みな兄弟。
だからこそ、すべてのいのちを愛おしく思え、なんとかして救いたいと思えるのです。
とはいえ、率先するのであれば、やはり自分の身近な人たち(両親・兄弟・子供など)から救いたいと思うでしょうね。
これが第五条の締めのことばに結びつくわけです。
まとめまてみると、、、
- 自力の念仏では誰も救えない
- 誰かを救えるのは仏に成ってから
- 仏と成れば阿弥陀仏と同等の目線に
- いのちの繋がりを辿ればみな親兄弟
という流れとなり、
阿弥陀さまのはたらきによって仏となってこの世に戻ってきたならば、生まれ変わりを繰り返してきたすべてのいのちを親兄弟のように思えるだろう。
そのときには両親だけでなく、すべてのいのちを平等に救いたいと願うはず。
だから、両親”だけ”の供養を願って念仏を称えたことは、一度たりともないんだ。
少し言葉を付け足しましたが、ようやく親鸞聖人のお答えに辿り着きました。
以上が第五条の本質のロジックになるのでは?と考えています。
歎異抄(たんにしょう)第五条についてのまとめ
以上、歎異抄の第五条を会話形式で私訳し、要点を解説してみました。
個人的には、悪人正機と並ぶほどたいせつな内容であると思っています。
第五条から学ぶべきことは、
念仏は供養のために称えるものではない
ということ。
お葬儀やご法事に参列し、念仏を称えても、故人が救われるわけではないのです。
むしろ念仏は、故人から届けられたものなんですよ
故人が仏と成られ、仏縁としてこの世に戻り、あなたを救おうと与えてくださったもの。
そのように考えると、お念仏がより尊く、ありがたいものに思えます。
ぜひ、こころに留めておいてくださいね。
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