本記事は、歎異抄(たんにしょう)の第六条を現代語訳で私訳し、解説したものです。
第六条は信心について。
突然ですが、質問ですw
あなたのこころにある信心は、誰からもらいましたか?
と聞かれると、答えに困りますよねw
親鸞聖人は、
信心は師匠から弟子に与えられるものではない!
と、当時あったと思われる師弟関係のあり方について厳しく非難されています。
人によっては、
誰からもらったものではなく、私の中で生まれたものだ
なんてお考えの方もおられるでしょう。
第六条の結論は、
信心は阿弥陀さまからのいただきもの
・・・・・
なんのことやらさっぱり、ですよねw
要するに「信心に深いも浅いもない」ということです。
本記事で、わかりやすく解説します。
ぜひさいごまでお付き合いくださいね🎵
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歎異抄(たんにしょう)第六条を現代語訳でわかりやすく私訳
ぼくなりの視点と解釈で、親鸞聖人と唯円が会話しているような様子で表現してみました。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
- 浄土真宗の宗祖
- 法然聖人を師と仰ぐ
- 1173年5月21日〜1263年1月16日
- 親鸞聖人のお弟子さん
- 歎異抄の著者とされる
- 1222年〜1289年2月27日
お念仏をたいせつにしている方々のあいだでも「この者は私の弟子だ」とか、「あの者は、彼の弟子だ」などという言い争いがあるそうですね。
そのようだな。
まったく残念なことだよ。
私はね、
自分には弟子など一人もいない
と、思っているんだ。
もちろん唯円、お前も弟子ではない
はい。。。
面と向かって言われると辛いものがありますが、今一度その理由をお聞かせくださいませんか?
もし私の力で、お前を含め、他人に念仏をさせることができれば、自分の弟子だ言えるかもしれない
では、私の念仏は、どなたのお力で称えているのでしょうか?
もちろん、阿弥陀さまのお力によって口から発せられるものなんだ
つまり、阿弥陀さまから届けられたものである、ということですね?
その通りだ。
だから、誰々の弟子などという言い方は、とても失礼なことだと私は思っている。
お考えは理解できました。
それでも、私が親鸞さまをお慕いするように、師弟のような関係はあるように思うのですが、、、
人間というものは、
縁があれば近づき、縁がなければ離れていくもの
“師弟関係を解消し、他の者と念仏を唱えても、極楽往生はできない”などという考え方は、もってのほかだ。
はい、それは全く同感です。
弟子云々にこだわる人は、あたかも”自分が弟子に信心を与えている“かのように捉えてしまっているのだ。
信心は、阿弥陀さまからいただいたもの
信心を我がものと勝手に思い込むなんて、どう考えても理解できない
どのような間柄であっても、ともに阿弥陀さまから念仏をいただいた同志である、ということですね?
そうだな。
念仏を”阿弥陀さまからいただいたもの”だと、こころから喜べるのであれば、どんな師弟関係であっても、師の恩も感じることができるだろう。
第六条の原文を現代語訳で書き下し
専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もってのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人ももたず候ふ。
そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候幅こそ、弟子にても候はめ。
弥陀の御もよほしにあづかって念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。
つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきてひとにつれて 念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。
如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんと申すにや。
かへすがへすもあるべからざることなり。
自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
歎異抄(たんにしょう)第六条を解説
私は信心深くないので、、、
なんてことば、よく聞いたり使ったりしませんか?
ぼくも、お参り先のお家の方との会話でよく聞きます
信心とは、特定の宗教を信仰する心である、というのが一般的な解釈でしょう。
しかし、親鸞聖人の仰る信心はもっと深い意味を持っているのです。
もう少し掘り下げていきましょう。
信心は”いただきもの”です
第六条のキーワードとなる信心。
親鸞聖人は、
信心は阿弥陀さまからいただいたもの
と、表現されています。
歎異抄だけでなく、浄土真宗にとって非常に重要な考え方です。
が、わかりにくいですよねw
もしも信心が、私のこころから起こったものだと考えてみると、
このような図になりますよね。
私の方から阿弥陀さまに願い、信じるようなイメージ。
しかし、阿弥陀さまはすでに”必ず救う“と約束してくださっています。
阿弥陀さまを信じます→救いましょう
ではなくて、
必ず救うから信じてね→ありがとうございます
という流れになるわけです。
後者で考えるなら、信心は決して自分のこころから起こったものではないですよね。
阿弥陀さまからいただいたものであるから、信心に浅い・深いなんてないんです。
信心は感謝のこころ
感謝の気持ちは、何か恩を感じたときに起こりますよね。
誰かの優しさであったり、有難いことへの気づきであったり。
つまり、感謝の気持ちが起こるには、起点となる何かが必要なんです。
信心もまったく同じ
自分が起点となることはありません。
すでに阿弥陀さまから願われていることに対する感謝の気持ち
これこそ、親鸞聖人の仰る本当の信心と言えるでしょう。
歎異抄(たんにしょう)第六条についてのまとめ
以上、歎異抄の第六条を会話形式で私訳し、要点を解説してみました。
実際のところ、親鸞聖人には3,500人ほどのお弟子がおられたそうです。
しかし親鸞聖人にとっては、師弟など関係なく、みんな同志。
阿弥陀さまからいただいたお念仏を、ただただ喜んでおられただけなんですよね。
驕(おご)りや、偉ぶることない親鸞聖人の姿が目に浮かびます
信心もお念仏も、すべて阿弥陀さまからいただいたもの
いただいたものであるからこそ、人によって信心が違うはずがないんです。
胸に刻んで、過ごしていきたいものですね。
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