歎異抄第十一条は、当時の時代背景がうかがえる内容です。
第一条と照らし合わせて読むと理解しやすいはず。
よかったらこちらも合わせて読んでみてくださいね
第十一条を理解する上で重要なキーワードを一つ挙げるなら、
方便法身(ほうべんほっしん)
です。
阿弥陀さまの願いが文字として姿を変えたもの、これが念仏「南無阿弥陀仏」であるという意味。
第十一条を読むことで、阿弥陀さまの誓いと念仏は、一心同体であることが理解できるでしょう。
本記事でわかりやすく現代語訳で私訳・解説していきますね。
それでは、はじめていきましょう。
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歎異抄(たんにしょう)第十一条を現代語訳でわかりやすく私訳
ぼくなりの視点と解釈で、わかりやすく現代語訳で私訳しています。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
読み書きができなくても、熱心に念仏をされる方がおられる。
そんな方に対して、
おまえは、阿弥陀さまの”あらゆるいのちを救うという誓い“を信じて念仏を称えているのか?
それとも”南無阿弥陀仏のことばの力“を信じて称えているのか?
さぁ、どっちだ?
などと、脅すような物言いで惑わせるものがいるらしい。
そんなことを聞くものに限って、何にもわかっちゃいないんだ。。。
このようなことは、くれぐれも慎重に考えなければならない。
阿弥陀さまは、あらゆる人を救うと誓われた。
その誓いのもとに、誰でもかんたんで覚えやすい「南無阿弥陀仏」という名前(名号)を生み出された。
そして、
この名を称えるものを、一人残らず必ず救う
と約束してくださった。
だからこそ、阿弥陀さまのお誓いに身をまかせることで往生が約束されることも、南無阿弥陀仏と念仏を称えることも、すべて阿弥陀さまのおはたらきなのだ。
自分の思惑(自力)を一切混ぜることなく、阿弥陀さまの本願(他力)を疑いなく受け取ることで、お浄土へ参ることができる。
このように考えると、阿弥陀さまの誓いを信じるのも、名前(名号)の力を信じるのも、共に阿弥陀さまのおはたらきによるもので、決して別々のものではないと理解できるだろう。
一方で、自分の考えを挟み、善い行い、悪い行いで往生が左右されると考える人がいる。
これは、阿弥陀さまの誓いを信じようとしない、自分の力で往生しようとする考えだ。
念仏の大きな力さえ信じていないんだよ。。。
しかしながら、このようなものたちが絶対に往生できないのか?といえばそうでもない。
最終的には、どのようなものであっても必ずお浄土へ参ることができるだろう。
自力の念仏を他力の念仏へと転じさせるのも、阿弥陀さまのおはたらきなのだ。
以上のように考えると、阿弥陀さまの誓いの力も、南無阿弥陀仏のことばの力も決して別のものではないことがわかるだろう。
第十条の原文を現代語訳で書き下し
一文不通のともがらの念仏申すにあふて、「なんぢは誓願不思議を信して念仏申すか、また名号不思議を 信ずるか」といひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころを まどはすこと。
この条、かへすがえすも、こころをとどめて、おもひわくべきことなり。
誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいたしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて、生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひ まじはらさるかゆへに、本願に相応して実報土に往生するなり。
これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつに
して、さらにことなることなきなり。
つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏をも、自行になすなり。
このひとは、名号の不思議をもまた信ぜざるなり。
信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆへに、つゐに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。
これすなはち、誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。
歎異抄(たんにしょう)第十一条を解説
歎異抄が書かれた鎌倉時代、現代のような義務教育はもちろんありませんでした。
読み書きを習うことは、上流階級でなければ難しい時代だったのです。
なので、読み書きができない方もたくさんおられたはず。
そのような方々であっても、念仏を称えることは、とても易しいことだったんですよね
たった六文字「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、救われる世界。
- 読み書きなんて、できなくてもいい
- 難しいことは何も考えなくてもいい
- ただ念仏をするだけで救われていく
こんなにありがたいことはありませんよね。
しかし、この誰でもかんたんにできる念仏を、あまり面白く思わない方がおられたのも事実。
冒頭に出てくる一文は、まさにそのような方から投げかけられたものだったのではないでしょうか?
阿弥陀さまのはたらきと念仏のはたらきは別物?
おまえは、阿弥陀さまの”あらゆるいのちを救うという誓い“を信じて念仏を称えているのか?
それとも”南無阿弥陀仏のことばの力“を信じて称えているのか?
冒頭に出てくるこの一文。
読み書きのできない方を冷笑するような物言いだったのでは?と想像しますw
いつの時代でも、マウントを取るというか、他人を困らせようとする人はいるものですね…
せっかくなので、この質問をもう少し掘り下げて見てみます。
要点をまとめると、
“阿弥陀さまのはたらき”と、”念仏のはたらき”は別のものなのか?
ということになるでしょう。
この質問に対する答えは「NO」です。
なぜなら、
阿弥陀如来=南無阿弥陀仏
だからです。
阿弥陀さまは念仏そのものです
念仏は、阿弥陀さまの誓い・知恵が「文字」として姿を変えたものです。
方便法身(ほうべんほっしん)と言います
なぜ姿を変える必要があったのか?
それは、阿弥陀さまご自身の「すべての人を救いたい」という願いを実現するために必要なことであったからだと思っています。
「南無阿弥陀仏」の六文字に姿を変えることで、
- いつでも
- どこでも
- だれでも
阿弥陀さまの願いをいただくことができます。
ものすごく画期的な変身であると思いませんか?w
つまり、阿弥陀さまの誓いは念仏そのものであるため、阿弥陀さまのはたらきも念仏のはたらきも全く同じものであるということです。
このように受け止めると、念仏は自分のこころ(自力)から出てきたものではなく、阿弥陀さまからのいただきもの(他力)であると理解しやすくなりますね。
歎異抄(たんにしょう)第十一条についてのまとめ
平安時代から続く伝統的な仏教(天台宗・真言宗など)は、基本的に国家や貴族が支援していたため、豪華な寺院での祈祷や儀式が重視されていました。
これには、多くの費用がかかるため、裕福な貴族や武士の層が中心的な信者層となるわけです。
そんな時代に、
念仏を称えるだけで救われる
なんて教えが弘まってしまうと、従来の仏教の僧侶や信者にとっては脅威であったに違いありません。
言わば、従来の仏教のあり方をぶち壊すようなものですからね
このような時代のターニングポイントを思い浮かべながら第十一条を読んでみると、一層味わい深いものとなるでしょう。
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