こんにちは!
ヨシボウです🎵
京都駅からすぐ近く。
威厳のある二つの大きなお寺があります。
それが西本願寺と東本願寺です。
なかには、
同じ浄土真宗なのに、なぜ二つに分かれているんだろう?
と、疑問に思われる方もおられるでしょうね。
これには深〜い理由があるのですw
本記事では、日本仏教の重要な一派である浄土真宗が東西に分かれた理由について、歴史的な背景から分かりやすく解説していきます。
本願寺派と真宗大谷派の違いについても少し触れますね。
ぜひ、さいごまでお付き合いください!
それでは、始めていきましょう🎵
- 浄土真宗本願寺派の現役僧侶
- ブログ歴3年、5サイトを運営
- 趣味はブログと読書
- 最新技術(AI、メタバース)などに関心アリ
浄土真宗とは?歴史から学ぶ基礎知識
本願寺が東西に分かれた理由を知る前に、浄土真宗について基礎的なところを見ていきましょう。
親鸞聖人が開いた浄土真宗の教え
鎌倉時代、親鸞聖人(1173-1262)によって開かれた浄土真宗は、「南無阿弥陀仏」を称える念仏の教えを説きました。
どんな人でも救われる
という画期的な考え方は、当時の人々の心に深く響いたのです。
親鸞聖人は、それまでの仏教とは異なり、専門的な修行や戒律を重視せず、日常生活の中で仏の教えを実践することを説きました。
また、妻帯(結婚)を認めるなど、革新的な考え方を持っておられたのです。
本願寺の成り立ち
親鸞聖人がお亡くなりになったあと、その教えを伝えるための拠点として、本願寺が設立されました。
本願寺が建立された直接的な起源は、親鸞聖人のひ孫にあたる覚如にあります。
覚如は、親鸞聖人の教えを整理し、より多くの方に弘める努力をしました。
覚如によって、本願寺の教団の基礎が築かれたと言っても過言ではありません。
次第に多くの人々の信仰を集めるようになっていきました。
蓮如上人の功績
室町時代、第8代宗主の蓮如(れんにょ)上人(1415-1499)の時代に、本願寺は大きく発展します。
“中興の祖”と呼ばれていますよ
蓮如上人は各地を巡り、分かりやすい言葉で教えを説き、多くの人々を救済しました。
この時期に、本願寺は単なる宗教施設から、大きな社会的影響力を持つ組織へと成長していくのです。
東西本願寺の分裂はなぜ起きた?理由をわかりやすく解説
1602年(慶長7年)、第12代宗主の教如上人と弟の准如上人との間で起きた対立が、東西分裂の直接的なきっかけとなりました。
これは単なる兄弟げんかではなく、当時の複雑な政治状況が大きく影響しているのです。
詳しくみていきましょう。
時代背景から見る分裂の要因
戦国時代から安土桃山時代にかけて、本願寺は強大な権力を持つようになっていました。
戦国大名からも恐れられるくらいの団体となっていたわけですね。
当時の天下は織田信長。
信長は本願寺の勢力を抑えるため、石山本願寺(現在の大阪城の場所)との争いを起こしました。
「石山合戦」と呼ばれる歴史的な戦の一つですね。
信長の兵はプロ集団。
対する本願寺の兵は門徒(信者)ですから、戦に関しては素人同然。
そんな方々がプロに立ち向かい、10年に渡って攻防を続けたわけですよ。
本願寺を守りたいという門徒方の信仰の強さ・結束力がうかがえますよね。
10年に及ぶ攻防の末、本願寺は信長に屈することになります。
信長との講和と東西分裂の発端
1580年、顕如(けんにょ)(本願寺の第11世住職)は信長と講和し、石山本願寺を退去しました。
対立するする相手同士が取り決めを結び、戦をやめ平和を回復すること。
これは浄土真宗側にとって苦渋の決断でしたが、信長の圧倒的な軍事力と権威の前にはなす術もなく、、、
この結果、本願寺は一時的に拠点を失うことになります。
東西分裂の決定
天下は豊臣秀吉の時代となり、京都に本願寺の再興が許されます。
この本願寺がいまの西本願寺ですね
その2年後、顕如が亡くなり、彼の後継を巡って内部対立が起こりました。
顕如には複数の息子がいましたが、長男の教如(きょうにょ)と三男の准如(じゅんにょ)の間で後継者争いが生じます。
講和ではなく、戦い続けることを望んでいた教如。
講和による平和回復を望んだ父・顕如や准如。
意見の食い違いが生じてしまったのです。
一旦は長男である教如が後を継ぐことになるのですが、石山合戦を巡る対立によって、准如が西本願寺の初代宗主となります。
この約10年後、天下は徳川家康の時代。
家康は、本願寺内での権力均衡を図ることで、真宗教団の影響力を分散させ、政権の安定を確保しようとしたのです。
教如に東本願寺の建立を認め、本願寺は東西に分裂することになりました。
以上が、本願寺が東西に分裂した理由となります。
このように時代背景とともに見てみると、単なる兄弟ゲンカではなかったことがご理解いただけるでしょう。
親鸞聖人の教えは、当時の人々にとってもの凄く魅力的なものであったことがうかがえますね。
西本願寺(本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)の主な違い5選
分裂したものの、それぞれの宗派は親鸞聖人の教えに基づき、全国に拡まりました。
お西(にし)さん、お東(ひがし)さんと呼ばれ、親しまれていますね
日本列島を東西に分けるなら、ちょうど愛知県あたりが境界となります。
ざっくりと、愛知より西は本願寺派が多く、東は大谷派が多い分布となっています。
同じ念仏を大事にする宗派ではありますが、ちょっとした違いがあります。
ざっとあげると、
本願寺派(西本願寺) | 真宗大谷派(東本願寺) | |
---|---|---|
ご本尊 | 舟後光がある | 舟後光がない |
絵像(掛け軸)の後光の本数 | 8本 | 6本 |
教団代表の呼び方 | 門主 | 門首 |
鈴の台座 | 六角形 | 四角形 |
念珠のかけ方 | 房が下 | 房が上 |
以上のような感じ。
具体的に画像をあげてみていきましょう。
ご本尊の違い
浄土真宗のご本尊は、阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏さまです。
仏像の場合、背後に舟後光(ふなごこう)があるのが本願寺派。
舟後光がないのが真宗大谷派となります。
舟後光は、舟のような形をしているところから名付けられています。
実際には蓮華の花びらをかたどったものだそう
仏像の背後に置かれることで、神聖さや威厳を表していますよ。
絵像の後光の違い
掛け軸の状態のご本尊を絵像といいます。
絵像については本願寺派も真宗大谷派もほとんど変わりません。
ただ、後光(ごこう)の本数が違うのみ。
しかも非常にわかりにくいですw
ちなみに後光とは、神聖さを象徴する要素として描かれています。
画像の場合、紋で見分ける方がわかりやすいですね。
教団代表の呼び方の違い
会社の場合、代表(トップ)の方を社長と言いますよね。
浄土真宗の場合、本願寺派では「門主(もんしゅ)」、真宗大谷派では「門首(もんしゅ)」と言います。
ややこしいですよねw
調べたところ、
- 門主→宗教団体や寺院の最高責任者
- 門首→組織の代表者
となるようです。
あまり深く考えず、漢字が違う程度の理解で良いでしょうw
鈴の台座の違い
お経を読むときに鳴らすお鈴(りん)。
こちらは一目瞭然ですねw
非常にわかりやすい違いの一つ。
ただ、最近のモダンなお仏壇では、お鈴は台座に置かず、お座布団のみになっている場合があります。
テレビドラマでも、お鈴をチーンと鳴らして手を合わせるシーンを見かけることがあります。
浄土真宗の作法としては、お鈴はお経を読むときのみに鳴らします。
手を合わせるだけの場合、お鈴を鳴らす必要はありません。(物足りないかもですがw)
念珠のかけ方の違い
二輪念珠に限りますが、持ち方にも違いがあります。
- 本願寺派→両手に通してかけ、房を下に垂らす
- 真宗大谷派→親玉を押さえ、房を左側に垂らす
念珠の中心にあるひとまわり大きな珠を親玉と言いますよ
念珠については、多くの方が単(輪)念珠をお持ちだと思うので、あまり気にすることはないかもです。
今一度、あなたがお持ちの念珠を確認してみて下さいね。
以上が、本願寺派と真宗大谷派の主な違いです。
読むお経も、内容は同じであっても読み方(節)が違ったりします。
ぼくは本願寺派の僧侶なので、真宗大谷派のお経は読めないですw
両派のお経を聴き比べてみても面白いかもしれませんね。
京都にお越しの際は、ぜひ両派の本願寺を訪れてみてくださいね。
まとめ:東西に分裂しても、同志です
本願寺が分裂して400年。
派を問わず、浄土真宗の教えは全国に拡がっています。
東と西は仲が悪いんでしょ?
なんてことを聞きますが、そうでもないですよw
お互いに念仏を大事にする同志であることは間違いありません。
これからも両派で力を合わせて、親鸞聖人の教えを伝え続けたいものです。
なお、本願寺の分裂についてもっと詳しく知りたい方は、ぜひこちらの本を読んでみてください。
非常にわかりやすくて読みやすいですよ
さいごまでお読みいただき、ありがとうございました。
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