歎異抄第十二条は、第十一条と似た感じの内容です。
いつの時代であっても、対立・争いはつきもの。
しっかり勉強しないと浄土に参れない!
うちの教えの方が優れているんだ!
などなど。
当時、拡がりつつあった浄土真宗の念仏の教えは、非難も多かったようです。
なぜ争う必要があるのだろう。。
こころを乱すだけじゃないか。。。
和面不同(わじふどう)ということばのごとく、お互いが尊重し合えば争いなんて起こらないのに。。
第十二条では、唯円の憤り、歎きが赤裸々に語られていますよ。
本記事でわかりやすく現代語訳で私訳し、解説していきます。
ぜひ、さいごまでお付き合いください
それでは、はじめていきましょう!
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歎異抄(たんにしょう)第十二条を現代語訳でわかりやすく私訳
ぼくなりの視点と解釈で、わかりやすく現代語訳で私訳しています。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
しっかりとお経をよんで学んでいなければ、お浄土に参ることはできないだろう
などという人がいるらしい。
見当違いもいいところだ。
阿弥陀さまの本願について説かれた経典には、
阿弥陀仏の誓いを信じて念仏を称えるものは、必ず浄土に行ける
と書かれている。
それ以外に、どんな学問が必要だろうか。
それでも腑に落ちない人は、とことんまで追求して、阿弥陀仏の真意を学んでみると良いだろう。
それでも納得がいかないのであれば、それはもう不憫としか言いようがない
字も読めない人でもかんたんに称えられる念仏であるから、易行というのであって、だからこそ万人が救われるのだ。
ところが、学問ばかりに執着して、名声や利益を求める人がいる。
そういう人(自力を頼りとする人)は浄土から遠ざかってしまうのではないだろうか
親鸞さまもそのように仰っていた。
最近では、
- うちの教えが一番すぐれている
- 他の教えは劣っている
などと言い争う人もいる。
しかし、これは自分で自分の信仰を傷つけているようなものだ。
たとえ他の人が、
- 念仏は価値がない
- その教えは浅はか
- 念仏は程度が低い
と言われても、決して争わないことだ。
争いになりそうなときは、
私のような煩悩にまみれた人間でも、阿弥陀さまが必ず救って下さると信じています。
私の力では、厳しい修行や悟りを開くことなど到底かないません。
阿弥陀さまのお約束を信じてお救いいただくことが本望です。
どうぞご理解くださいませ。
と、応じれば、きっと争いは起こらないだろう。
言い争いは、かえって心を乱すだけ。
怒りや憎しみを生み出すきっかけにしかならないので、そのようなものとは距離を置くべきだ。
親鸞さまはこのようにおっしゃっていた。
念仏を信じるものもいれば、批判するものもいるだろう。
我々は、そのことを受け入れたうえで、一心に念仏を信じて生きていくと決めたのだ。
批判するものがいるからこそ、かえって阿弥陀仏のことばが真実だとわかる、とも言えるだろう。
釈尊は、どんな教えであっても、信じるものもいれば信じないものもいる、それだけのことだ、と仰っていた。
だからわたしは阿弥陀仏の誓いを信じ、南無阿弥陀仏をよりどころとして生きていく、それだけのことななんだ。
しかし今の世の中では、学問をして人の批判を止めさせようとしたり、議論ばかりを重んじようとする傾向があるようだ。
本来、学問とは阿弥陀仏の深い慈悲の心を知り、まだ迷っている人たちに、善悪にとらわれない仏さまの願いを伝えるためにあるはず。
何も考えずに、ただ素直に念仏を称える人に対して、「もっと学びなさい」と非難することは、教えの障害となり、阿弥陀仏の教えに逆らうことになる。
自分の信仰を失うだけでなく、他人も迷わせることになってしまうのだ。
それは、親鸞さまのお心に背くことであり、阿弥陀仏の本願から外れることになってしまう。
よくよく気をつけるべきである。
第十二条の原文を現代語訳で書き下し
経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。
この条、すこぶる不足言の義といひつべし。
他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ、念仏を申さば仏になる。
そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。
まことに、このことはりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。 経釈をよみ、学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。
一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆへに 易行といふ。
学問をむねとするは聖道門なり。
難行となづく。
あやまて学問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふべきや。
当時専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくわだてて、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」といふほどに、法敵も出できたり、謗法もおこる。
これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや。
たとひ諸門こぞりて、「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさし、いやし」といふとも、さらにあらそはずして、「われらがことく下根の凡夫、一文不通のものゝの信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じ候へば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。
たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからかためには、器量およばされば、つとめがたし。
われもひとも、生死をはなれんことこそ諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからず」とて、にくひ気せずは、たれのひとかありて、あたをなすべきや。
かつは諍論のところには、もろもろの煩悩おこる智者遠離すべきよしの証文候にこそ。故聖人のおほせには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。
またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候ふ。
しかれば往生は、いよいよ一定とおもひたまふなり。
あやまてそしるひとの候ふらばさらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼえ候ふぬべけれ。
かく申せばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。
仏のかねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、とのうたがひをあらせしと、説きおかせたまふことを申すなり」とこそ候ひしか。
いまの世には学文してひとのそしりをやめ、ひとへに論義問答むねとせんとかまへられ候うにや。
学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、本願には善悪・浄穢なき趣きをも説ききかせられ候はばこそ、学生のかひにても候はめ。
たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどいひおどさるること 法の魔障なり、仏の怨敵なり。
みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他を迷はさんとす。
つつしんでおそるべし、先師の御こゝろにそむくことを。
かねてあはれむべし。弥陀の本願にあらざることを。
歎異抄(たんにしょう)第十二条を解説
第十二条から学ぶべきことは、
争いは、何も生み出さない
ということではないかと思っています。
どんな意見であっても受け止めて、聞き入れることが大事。
頭では理解していても、なかなか難しいんですよね
宗教的なことに限らず、全てにおいて言えることではないでしょうか?
もう少し掘り下げて考えてみましょう。
争いは何も生み出さない
自分の意見がいちばん正しい
人は無意識のうちにそんなことを考えてしまうもの。
しかし、もう少し広い視野で見てみると、あながち自分が正しいわけではなかった、なんてことはよくあります。
十人十色ということばがあるように、十人いれば十の考え方があり、受け取り方はみんな違うものです。
それは間違ってる!
私がいちばん正しいんだ!
なんて言い争っていると、対立しか生まれません。
相手の意見をしっかり聞き、
なるほど、そういう考え方もあるのか。
自分には思いつかないことだった。
と、素直に受け入れれば、争いは学びへと変化するのです。
みんなちがって、みんないい
歎異抄の第十二条のこころを端的に表した素晴らしい詩を2つご紹介します。
まずは、金子みすゞさんの有名な詩から。
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんなうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
『わたしと小鳥とすずと』
非常にわかりやすいですよね。
私はわたし。あなたはあなた。
それだけのことなんですよね。
みんなちがって当然だし、みんな素晴らしいのです
だから、争う必要なんてありません。
もう一つ、素晴らしい詩をご紹介しましょう。
それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる?
そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
『世界に一つだけの花』(一部抜粋)槇原敬之
国民的アイドルSMAPに提供された大ヒットソングです。
金子みすゞさんの詩と同じようなメッセージ。
自分だけの花を立派に咲かせ、周囲に咲いた花を愛でる
こんな優しい世界であってほしい。
しかしながら、世間を見渡せば、自分の花以外をすべて踏みにじるような光景が広がっています。
だから、争いが生まれ、罪もない方が戦争で命を落としてしまう。
仏教的にいえば、
煩悩を抱えている凡夫であるから、我に囚われてしまう
と、言えるのかも知れません。
どうしようもない私たち人間に、
- 本当にそんな考え方でいいのか
- 相手のことをしっかり考えているのか
と、こころのブレーキをかけてくれるのが、第十二条の教えではないかと思うのです。
歎異抄からの学びは、現代社会に通じる
歎異抄の教えは、単なる道徳的な戒めではありません。
人々が互いを認め合い、共生できる社会を作るための具体的な指針となるのです。
相手の意見を否定するのではなく、異なる価値観を受け入れる
それは決して簡単なことではありませんが、この実践こそが、平和な社会への第一歩となるのではないでしょうか。
最後に付け加えると、この教えは特定の宗教や文化に限定されるものではありません。
むしろ、人類共通の叡智として、現代社会においてますます重要性を増しているといえるでしょう。
歎異抄(たんにしょう)第十二条についてのまとめ
さいごにまとめると、歎異抄の第十二条から学べることは、「争うことに意味はない」ということです。
誰でも自分の考えが正しいと思いがちですが、人それぞれ違う考え方があって当然。
「あなたは間違っている」と決めつけるのではなく、「そういう考え方もあるんだね」と受け止める心が大切です。
金子みすゞさんが、
みんなちがって、みんないい
と詠んだように、お互いの違いを認め合い、仲良く生きていける世の中を作っていきたいですね。
- 浄土真宗本願寺派の現役僧侶
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