いよいよ歎異抄も後半に突入します。
第九条までは親鸞聖人のことばを集めたもの。
第十条以降は、唯円が世に出回った間違った見解を批判する内容となっています。
前半部分と呼応するような構成になっているのが、興味深いところなんですよね
第十条は、唯円がこれから綴る文言についての所信表明のような感じとなります。
本記事でわかりやすく現代語訳で私訳・解説していきますね。
それでは、はじめていきましょう。
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歎異抄(たんにしょう)第十条を現代語訳でわかりやすく私訳
ぼくなりの視点と解釈で、わかりやすく現代語訳で私訳しています。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
- 浄土真宗の宗祖
- 法然聖人を師と仰ぐ
- 1173年5月21日〜1263年1月16日
- 親鸞聖人のお弟子さん
- 歎異抄の著者とされる
- 1222年〜1289年2月27日
念仏はあれこれ考えて称えるものではない。
どんなに理屈を並べても、論じ尽くすことなどできないのだ。
親鸞さまはいつもそのように仰っていた。
決して忘れてはいけないことであると思い、今筆をとっている。
そういえば、親鸞さまがご存命のとき、同じく念仏をたいせつにしている方々が、はるばる関東から来られたことがあった。
心にお浄土を思い、共に阿弥陀さまより頂いた信心を喜んでいた同志であった。
時がたち、それらの方々の影響で念仏を称える人々は急激に増えてきたことで、最近では親鸞さまの思いとは異なる、間違った念仏の教えが広まってきているらしい。
その誤った理解について、これから述べていこうと思う。
第十条の原文を現代語訳で書き下し
念仏には無義をもて義とす。
不可称不可説不可思議のゆへにとおほせさふらひき。
そもそも、かの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして、心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとに
ともなひて、念仏まふさるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人のおほせにあらざる異義どもを、近来はおほく仰せられあうて、候ふよし、伝えうけたまはる。
いはれなき条々の子細のこと。
歎異抄(たんにしょう)第十条を解説
念仏には無義をもって義とす
第十条の冒頭に出てくる一文です。
めちゃくちゃ難しいですよね。。
「義」というのは、正しさとか道理という意味。
なので、訳してみると、
念仏は、正しさや道理を求めないのが、本当の正しさである
ということになるんですが、これでも理解しにくいですよね。
さらに噛み砕いて考えていきましょう。
完璧な人なんていない、だからこそ救われる
浄土真宗の教えでは、人間は完全に正しい行いや清らかな心を持つことは難しいと考えています。
なぜなら、
誰もが煩悩を抱えているからです。
阿弥陀さまの本願は、そうした「正しさ」から解放された無条件の慈悲を表しています。
つまり、どんな人でも平等に救うというおはたらきですね。
「無義をもって義とす」という言葉は、その阿弥陀さまの救いが、「正しさ」や「道理」に縛られず、誰もが平等に救われるという意味を持っています。
もっとかんたんに言い換えてみると、
完全に正しい人なんていないけれど、それでもみんな阿弥陀さまに救われる
と、味わうことができるでしょう。
阿弥陀さまを”お母さん”に例えてみると、、、
浄土真宗では阿弥陀さまのことを「親さま」と親しみを込めてお呼びすることがあります。
なので、阿弥陀さまを”お母さん“に言い換えて考えてみましょう。
ある家庭に3人の息子がいました。
- 長男:太郎・・・面倒見がよく、勉強もできる
- 次男:次郎・・・スポーツ万能、勉強は嫌い
- 三男:三郎・・・とても優しい、スポーツ苦手
みんなそれぞれに良いところと、あまりよろしくないところがあります。
また、3人でケンカをすることもあったり、3人で悪さをすることだってあります。
3人のお母さんは、正しいこと、ルールを守れる子どもだけに愛情を注ぐわけではありません。
3人の長所短所をすべて受け入れて、平等の愛情を注ぎ、何歳になっても愛し続けますよね
「無義をもって義とす」というのは、まさにこのお母さんのようなイメージです。
普通なら「正しさ」や「立派さ」、つまり「義」によって判断されることが世の常。
しかし、浄土真宗の教えでは、そういった「義」に縛られない無条件の愛や慈悲が強調されています。
阿弥陀さまは、私たちがどんなに完璧でない部分を持っていても、そのままを受け入れてくれる存在です。
それは、子どもがどんな失敗しても、そのままを愛し続けるお母さんのようなもの。
だから「無義をもって義とす」とは、「正しさ」による条件で判断するのではなく、条件なしに愛し、救ってくれる阿弥陀さまの慈悲を表しているのです。
そのままのあなたでいい。阿弥陀さまは、そんな私たちをありのまま受け入れてくださる
というメッセージとして受け止めると、とてもわかりやすいでしょう。
歎異抄(たんにしょう)第十条についてのまとめ
冒頭でもお伝えしたように、第十条からは唯円の異説を反論する内容となってきます。
まさに歎異抄(異なることを歎く)の始まりと言えるかもしれません。
その冒頭で「念仏は無義をもって義とす」ということばを取り上げたのは、自分を奮い立たせるような思いと、大きな責任を感じていたからではないでしょうか。
本当の親鸞聖人の教えを伝えたいという一心で、筆を走らせたに違いありません。
そんなこともあり、内容は徐々に難解なものとなっていきます。
第十一条以降はさらに気合を入れて解説していきますので、引き続きよろしくお願いします!
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