歎異抄の第十四条では、親鸞聖人が伝えたかった本当の念仏のあり方について説かれています。
現世利益(げんぜりやく)ということばがありますが、私たちは何かにつけて見返りを求めてしまいがち。
念仏についても、1回称えたら、、、10回称えたら、、、と効果に期待する考えもあったり、、、。
今も昔も変わりません。
親鸞聖人が生きておられた800年以上前の時代でも、念仏の誤った理解があったようです。
念仏は「数」で測れるものではありません
私たちが称えている念仏は、すべて阿弥陀仏のご恩に対する感謝の気持ちでいただくものなのです。
第六条、第八条と合わせて読まれると、理解しやすいですよ。
本記事を読み終えたとき、きっとあなたは念仏に対する新しい見方を得ることができるでしょう。
ぜひ、さいごまでお付き合いください!
それでは、はじめて行きましょう🎵
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歎異抄(たんにしょう)第十四条をわかりやすく現代語訳で私訳
ぼくなりの視点と解釈で、わかりやすく現代語訳で私訳しています。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
たった一度の念仏で、これまでに犯してきたとても重い罪も消える
などという話を聞いたことがある。
つまり、極悪人であっても、念仏を称えたことがない人でも、いのちが尽きようとするとき、どこかの偉い僧侶に導かれて、たった一度でも念仏を称えれば罪は消え、十回念仏を称えれば、さらに大きな罪も消えて浄土への道が開かれる、ということらしい。
これは私たちが信じている念仏の力ではない。
阿弥陀仏の慈悲の光に照らされた瞬間、私たちのこころに間違いなく信心が生まれる。
念仏の種が芽生えるようなものだ
つまり、その時点から私たちの往生は約束されている。
いのちが尽きるとき、私たちが犯してきた罪や、悩まされてきた迷い・苦しみは取り払われ、悟りへの道がひらかれるのだ。
これについては、紛れもなく阿弥陀仏の深い慈悲のおはたらきによるものである。
さもなければ、私たちのような多くの罪を背負おったものが、救われるはずがないのだ。
一生のあいだに称える念仏は、阿弥陀仏のご恩に対する感謝の気持ちでいただくものだと捉えるべきである。
念仏を称えることで罪が消えるんだ!
などという考えは、結局のところ自力のよるものであり、親鸞さまの他力念仏の教えとはかけ離れてしまう。
もしも、自力による念仏で往生ができるのであれば、いのちが尽きるまで絶えることなく念仏を称え続けなければならない。
そんなことは到底できるはずがない
よくよく考えてみよう。
実際に、我がいのちが尽きようとしているとき、念仏を称えることができるであろうか?
病気や怪我、ただの一言ですら発することができない状況だって考えられるではないか。
そんなとき、私たちは罪をどのように消せばよいのであろうか。
阿弥陀仏の誓いを信じるとこころに決めたのであれば、どんな罪があり、念仏を称えることができない状況であってもも、間違いなく浄土に参らせていただけるだろう。
幸いにも、臨終の際に念仏ができたとしよう。
その念仏も、自身の罪を消すものではなく、阿弥陀仏の慈悲に対して感謝の気持ちで称えるものであると考えるべきである。
臨終の際、念仏によって罪を消そうとする考えは「自力のこころ」によるものある。
私たちがたいせつにしている「他力のこころ」とは異なるのだ。
第十四条の原文を現代語訳で書き下し
一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。
この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、はじめて善知識のをしへにて、
一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。
これは、十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といへるか、滅罪の利益なり。
いまだわれらが信ずるところにおよばず。
そのゆへは、弥陀の光明に照らされまひらするゆへに、一念発起するとき、金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚のくらゐにおさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの煩悩悪障を転じて、無生忍を
さとらしめたまふなり。
この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひた申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報し、徳を謝すとおもふべきなり。
念仏まふさんことに罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと罪をけして往生せんとはげむにてこそ候 ふなれ。
もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、いのちつきんまで、念仏退転せずして往生すべし。
ただし、業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛をせめ正念に住せずしてをはらん。
念仏申すことかたし。
そのあひだの罪をばいかがして滅すべきや。
罪きえされば、往生はかなふべからざるか。
摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて罪業をおかし、念仏申さずしてをはるとも、 すみやかに往生をとぐべし。
また念仏の申されんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報したてまつるにてこそ候はめ。
罪を滅せんとおもはんば、自力のこころにして臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにて 候ふなり。
歎異抄(たんにしょう)第十四条を解説
歎異抄の第十四条では、念仏の回数と効果について説かれています。
どんな悪事であっても、1回の念仏で罪が消え、10回称えればさらに多くの罪が消える。
これは、大きな誤解です。
回数によって見返りを求めてしまうことは、親鸞聖人の説かれた他力の念仏ではなく、自力の念仏の考え方になってしまうからです。
ご門徒(信者)さまにも、
お念仏は、何回称えればよいですか?
ということをよく聞かれるんですよね。
わりと気にされている方は多いです。
ここまでお読みいただいたあなたなら、もうお分かりのはず。
答えは、、、
お念仏は、何回称えても大丈夫です
1回でも100回でも、何回称えても変わりはありません。
他力の念仏に回数は関係ないのです。
もう少し掘り下げて、理解を深めていきましょう。
念仏は、阿弥陀仏より届けられたものです
1回称えようが100回称えようが、念仏の効果は同じ。
なぜなら、
念仏は、阿弥陀仏より届けられたものであるからです
仮に、回数が重要なパラメータであり、多ければ多いほど救われやすいものであるとしましょう。
とうぜん、若者よりも年配の方、一般の方よりも僧侶の方が念仏の回数は多くなります。
ということは、若者よりも年配の方、一般の方よりも僧侶の方が救われやすい、ということになってしまいますよね。
とても平等とは言えません
阿弥陀仏の平等の救いを成立させるためには、絶対に回数を制限してはならないのです。
念仏は、川の水のようなものです
わかりやすくするために、念仏を水に置き換えて考えてみましょう。
阿弥陀仏という川があり、念仏という水が常にあなたに向かって流れてきています。
何回飲んでも、水は水。
誰が飲んでも、水は水。
10回飲んだらオレンジジュースになる、なんてことはあり得ないのです。
20歳を過ぎて飲んだらビールになる、なんてこともありません。
川の水は、すべての人に、すべてのタイミングで平等です。
つまり、
阿弥陀仏からいただく念仏は、すべての人に、すべてのタイミングで平等です。
このように味わうことができるでしょう。
阿弥陀仏は、常に見守っておられます
念仏は、決して数を重ねることで価値が増すものではありません。
それは、阿弥陀仏の平等な慈悲が、今この瞬間も途切れることなく私たちに注がれているという証なのです。
川の水が流れ続けているようなものです
この理解は、私たちの日々の暮らしに深い安らぎと喜びをもたらしてくれることでしょう。
重ねてお伝えしますが、
念仏の回数を気にする必要はありません。
ただ、阿弥陀仏の慈悲の光に照らされて、感謝の念仏を称える、これが親鸞聖人の説かれた他力の念仏のあり方なのです。
歎異抄(たんにしょう)第十四条についてのまとめ
以上、歎異抄の第十四条を現代語訳で私訳し、念仏の回数と効果に焦点を当てて解説してみました。
回数を考えると、どうしても「称えなければならない」と義務的に捉えてしまいます。
回数に関係なく、念仏は自然と口から出てくるものなのです。
慶び、感謝の現れですね
それが、親鸞聖人が私たちに伝えようとされた、本当の念仏「他力の念仏」であると考えるとよいでしょう。
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