浄土真宗の念仏は、
- 誰でも
- いつでも
- どこでも
称えることができる、とても易しいものです。
厳しい修行は不要。
念仏さえ称えれば、阿弥陀仏は決してあなたを見捨てることはありません。
歎異抄の第十五条では、この世で仏を目指すことの難しさを引き合いにし、浄土で仏と成らせていただく道が、いかにありがたく、易しいものであるのかが説かれているのです。
本記事で現代語訳でわかりやすく私訳し、解説します。
第四条、第五条と合わせて読まれるとわかりやすいと思いますよ
ぜひ、さいごまでお付き合いください。
それでは、はじめていきましょう🎵
- 浄土真宗本願寺派の現役僧侶
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歎異抄(たんにしょう)第十五条をわかりやすく現代語訳で私訳
ぼくなりの視点と解釈で、わかりやすく現代語訳で私訳しています。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
凡人であったとしても、自分の力で修行をし、この世でそのまま悟りを開くべきだ
という考えがあるそうだ。
到底ムリだと私は思う
弘法大師空海が開かれた真言宗の教えに「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」ということばがある。
つまり、生きているこの身のままで仏となる教えである。
「三密の行」という厳しい修行をし、この世で悟りを開き、仏となるものだ。
また、伝教大師最澄が開かれた天台宗の教えに「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」ということばがある。
法華経に依る「四安楽の行」という難行を終え、功徳を得ることができる。
これらは、すでに相当な知恵・才覚を持ち合わせ、その上で全身全霊をかけ、非常に困難な修行をしたものでなければ、到底辿り着けない悟りの道である。
しかし、私たちが歩む他力の道は、このようなものではない。
なぜなら、、、
この世ではなく、浄土で悟りを開き、仏と成らせていただくから。
これは、自らの修行でなく、阿弥陀仏のこころが届いた時点で約束されるのだ。
困難な修行は全く必要ではない
誰もが救われる易しい道であるから、知恵や才能は何も必要ないのだ。
ましてや、善人か悪人かさえも、超越した教えである。
この世で煩悩を消し、罪を滅するなんて、とてもできやしないのだ。
だからこそ、先ほどに挙げた真言宗や天台宗の優れた高僧であっても、浄土での成仏を願うのである。
- 戒律を守る
- 厳しい修行をする
- 難解な経典を理解する
など、到底できない私たちが、この世で悟りを開くなんて不可能。
そんな私たちが悟りの世界に達する道はあるのか?
安心して欲しい。答えは「ある」だ
“阿弥陀仏の本願”という大きな船に身をまかせ、苦海を超えて浄土に岸(彼岸)着いたとき、煩悩の雲は一瞬にして晴れ、月の光が悟りの道を照らしてくれるだろう。
それは、すべての人に平等に開かれた「真の悟りの道」なのだ。
この世で悟りを開かれたのは釈尊ただ一人。
私たちが釈尊と同等の超越した力を持ち合わせない限り、この世で悟りを開くなど不可能である。
親鸞さまが書かれた『高僧和讃』には、このようにある。
金剛堅固(こんごうけんご)の信心の さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護(しょうご)して ながく生死をへだてける
間違いのない信心がさだまれば、阿弥陀仏は決して私たちを見捨てることはない。
だからこそ、生死を繰り返す輪廻の世界から離れ、浄土へと往生させていただけるのだ。
このような阿弥陀仏の計り知れないはたらきを”悟り”のひと言で済ませるなど、なんと畏れ多いことか。。。
この世ではひたすらに阿弥陀仏の本願を信じるのみ。
あの世に参らせていただいて、はじめて悟りを開くことができるのだ。
これこそが、浄土の真実の教えであると、法然さまが仰っていた
親鸞さまのおことばが、思い出される。
第十五条の原文を現代語訳で書き下し
煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと、この条、もてのほかのことに候ふ。
即身成仏は、真言秘教の本意、三蜜行業の証果なり。
六根清浄はまた法花一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。
これみな 難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。
来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。
これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。
おほよそ今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行する浄侶、なをもて順次生のさとりをいのる。
いかにいはんや、戒行・恵解ともになしといへども、弥陀の願船に乗して生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無礙の光明に一味にして、一切の衆を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。
この身をもて、さとりをひらくと候うなるひとは、釈尊のごとく、種々の応化の身をも現じ、三十二相・ 八十随形好をも具足して、説法利益候ふにや。
これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。
『和讃』(高僧和讃)にいはく、
「金剛堅固の信心の さだまるときをまちゑてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」
とは候ふは、信心のさだまるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。
しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。
かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかずべきや。
あはれに候ふをや。
「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人の仰せには候ひしか。
歎異抄(たんにしょう)第十五条を解説
歎異抄第十五条は、浄土真宗の核心的な教えを示す重要な部分です。
現代社会において、多くの人が
自分の努力で結果を出さなければならない
というプレッシャーを感じていますよね。
しかし、この教えは、そうした価値観とは異なる救いの道を示しています。
易しい道としての他力本願
親鸞聖人が説く浄土真宗の教えの特徴は、その「易しさ」にあります。
主な特徴として、
- 厳しい修行を必要としない
- 特別な知識や才能を必要としない
- 善悪の区別すら超越している
この「易しい道」の本質は、私たちの日常生活にあります。
毎日何時間も座禅を組んだり、厳しい戒律を守ったりする必要はありません。
難しい経典を読みこなす必要もなく、宗教的な専門知識も必要ありません。
さらに重要なのは、
完璧な人間になる必要はないということです。
現代社会では、常に自己啓発や自己改革が求められがちです。
しかし、浄土真宗の教えは、そうした重圧から私たちを解放してくれます。
ありのままの自分でいることができ、過去の過ちに囚われる必要もありません。
むしろ、自分の至らなさに気づくことこそが、救いへの第一歩となるのです。
2. すべての人への平等な救い
浄土真宗の教えにおける救いの特徴は、
- 知識の有無に関係なく救われる
- 善人も悪人も平等に救われる
- 社会的地位や身分に関係なく救われる
この平等性は、現代社会における様々な差別や格差を超越する概念です。
学歴や教養は関係なく、宗教の知識がなくても構いません。
老若男女を問わず、誰もが救いの対象となります。
お金持ちでも、貧しい人でも平等であり、職業や社会的立場による区別もありません。
3. 浄土での成仏という道
親鸞聖人の教えの中心にある考えは、
- この世での煩悩からの解放は不可能
- 浄土に往生してはじめて悟りを開く
- 阿弥陀仏の本願を信じることが往生の鍵
これは、人間の本質を深く理解した教えといえます。
人間である以上、欲望や怒り、悲しみから完全に解放されることは不可能です。
しかし、それは欠点ではなく、むしろ人間の自然な姿として受け入れられるべきものなのです。
浄土での成仏という考えは、現代人に大きな安心を与えますね
この世での完璧な悟りを目指す必要はなく、ただ阿弥陀仏の浄土に生まれ変わることを願えばよいのです。
そのために必要なのは、難しい修行でも戒律の厳守でもなく、ただ「南無阿弥陀仏」と称えることだけ。
これは、現代の忙しい生活の中でも十分に実践できる教えといえるでしょう。
歎異抄(たんにしょう)第十五条についてのまとめ
歎異抄の第十五条の教えは、現代社会を生きる私たちに、大きな安らぎと希望を与えてくれます。
自己責任論や自助努力が強調される現代において、この「誰もが平等に救われる易しい道」という考えは、特別な意味を持ちます。
社会的な立場や境遇に関係なく、誰もが救われる道があるという教えは、競争社会の中で疲れ果てた現代人の心の支えとなるでしょう。
「できない自分」「至らない自分」をそのまま受け入れ、阿弥陀仏の大きな慈悲の中で生きていけばよいという考えは、現代にこそ必要な教えではないでしょうか。
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