歎異抄の第十六条は「回心(えしん)」についてのお話です。
改心とも言い換えられますが、意味としては、
心を改め、正しい仏の道に入ること
ということ。
浄土真宗でいう正しい道とは、阿弥陀仏の慈悲に包まれた「他力」の道を表します。
悪を断ち、善を目指すことは回心ではないのだ
回心に対する誤った理解を払拭するべく、唯円の熱い思いが綴られていますよ。
本記事でわかりやすく現代語訳で私訳し、解説します。
ぜひ、さいごまでお付き合いください。
それでは、はじいきましょう🎵
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歎異抄(たんにしょう)第十六条をわかりやすく現代語訳で私訳
ぼくなりの視点と解釈で、わかりやすく現代語訳で私訳しています。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
浄土への往生を信じている人たちの中で、
思い通りにならいないと腹を立て、悪口や口論をすると、そのたびに反省して自分を見つめ直さないといけない
と、考える人がいるそうだ。
一見、正しいことのように思える。
しかし、見方を変えれば「悪を断ち、善を目指す」ということだ。
これは、いかがなものであろうか?
浄土への往生を願っている人は、回心(えしん)、つまり”自分の心を改める”ということは、一生のうちに一度しかないはず。
それは、
阿弥陀仏の慈悲の心にふれ、他力の念仏にすべてをおまかせしようとしたとき
これこそが回心である。
しかしながら、人生というのは儚いもの。
瞬く間に過ぎ去っていく。
そんな人生の中で、自分の心を悔い改めようなど、たいへんに難しいことだ。
回心することなくいのちが終わってしまったなら、阿弥陀仏の”すべてのいのちを救う”という願いは、無駄になってしまうかもしれない、とでもいうのだろうか。
そのような人たちは、口では「阿弥陀さまにすべておまかせします」とは言っても、こころの中では、
煩悩を抱えた悪人こそが救われるというが、それでも善人のほうが救われやすいのでは。。。
などと思っているのではないだろうか。
これは阿弥陀仏の他力のこころを受け取っているとは言えない。
そのように考える人でも、浄土への往生は間違いはないとはいえ、導かれる先は浄土の片隅となるかも知れない。
阿弥陀仏のお誓いをこころの底から信じられないことは、とても悲しいことだ。
浄土への道は、阿弥陀仏の力によって開かれる
と、信心が定まれば、もう思い迷う必要はない。
自分が煩悩だらけの人間であると思っていても、こころから阿弥陀仏の誓いを信じていれば、自然とその道に導かれるのだ。
とにかく、往生のためにあれこれ考える必要はない
ただただ、阿弥陀仏のお慈悲をありがたくいただき、常に感謝のこころで過ごせばよいのだ。
そうすればおのずと口から念仏が出てくださるはず。
これを「自然(じねん)」という。
自分の意思ではない、自然と出てくる念仏、だからこそ他力というのだ。
しかしながら、この「自然」を全く別ものと、あたかも真実を知っているかのように言う人もいるらしい。
実に残念なことである。
第十六条の原文を現代語訳で書き下し
信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをもをかし、同朋同侶にもあひて口論をもしては、 かならず廻心すべしといふこと。
この条、断悪修善のここちか。
一向専修のひとにおいては、廻心といふこと、ただひとたびあるべし。
その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧を たまはりて、日ごろのこころにては 往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまひらるをこそ、廻心とは 申し候へ。
一切の事に、あしたゆふべに廻心して、往生をとげ候ふべくは、ひとのいのちは出づる息、入るほどをまたずしてをはることなれば、廻心もせず、柔和忍辱のおもひにも住せざらんさきにいのち尽つきなば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおはしますべきにや。
くちには願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力をうたがひ、他力をたのみまひらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もともなげきおもひたまふべきことなり。
信心さだまりなば、往生は弥陀にはからはれまひらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。
わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまひらせば、自然のことはりにて、柔和忍辱のこころも出でくべし。
すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれびれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまいらずべし。
しかれば念仏も申され候ふ。
これ自然なり。
わがはからばさるを自然と申すなり。
これすなはち他力にてまします。
しかるを自然といふことの別にあるやうに、われ物しりがほにいふひとの候ふよしうけたまはる、あさましく候ふ。
歎異抄(たんにしょう)第十六条を解説
歎異抄の第十六条のポイントは「回心(えしん)」です。
回心とは、自力の信仰を改めて、他力を信じること。
つまるところ、
回心のタイミングは一生に一度しかない
というのが、唯円の主張です。
たしかに、信仰はコロコロと改めるものでもないですし、何度もそのタイミングがやってくる訳でもありません。
一見、かんたんそうに思えることです。
でも実際はそう単純ではありません。
はい、じゃあ今日から他力を信じて生きていきま〜す
と、サクッと切り替えられるものでもないのです。
なぜなら、私たちは煩悩を抱えているから。
切り替えようとしても煩悩が邪魔をしてしまうのですよ。
まかせることは難しい
自力のこころを捨てて、他力の道を行く
言い換えると、
阿弥陀仏にすべてをまかせて生きていく
とも言えるでしょう。
まかせるということは、疑わないということです。
疑わないことは実に難しい。。。
思いがけない不幸が訪れることもあります。
人間というのは、煩悩を抱えているため、必ず疑い心が現れます。
時には理不尽なことに腹を立て、
神も仏もあったものじゃない!
と、怒りの感情さえ起こしてしまう。
お母さんに抱かれる赤ちゃんのように、すべてをゆだねることはとても難しいことなのです。
阿弥陀仏はすべてを見通しておられます
阿弥陀仏は「すべての人を救う」と誓われました。
「すべて」とは本当にすべて、「あらゆる人」という意味。
その中には、ついつい疑い心を起こしてしまう私たちも含まれているのです。
口では「阿弥陀さまにまかせます。なんまんだぶ」と称えていても、心の中では、
ホントに救ってくださるのだろうか、不安、、、
と、考えてしまう私たち。
そんな私たちのこころをすべて見越したうえで「すべて救う」と誓われたのです。
こんなにありがたいことはありませんよね。
回心は自ら起こすものではない
辞書で調べてみても、回心は自ら起こすもののように書かれています。
何かの折に触れ、こころを改めようとする気持ちは素晴らしい。
しかし、阿弥陀仏の他力への回心は、阿弥陀仏の慈悲と出会った瞬間に生まれます。
私がどのように生きようと、どんなに疑おうと、絶対の救いを約束されていると知ったとき、こころは阿弥陀仏に向けられるのです。
回心すらも他力のおはたらきであると、ぼくは考えています。
歎異抄(たんにしょう)第十六条についてのまとめ
歎異抄の第十六条では「回心」に焦点を当てて説かれていました。
回心とは、自分の努力ではなく、阿弥陀仏の大いなる慈悲に「気づかされる」特別な体験。
人生で一度だけ訪れる、心の根本的な転換点なのです。
まるで長い間暗い部屋にいて、突然窓が開き、柔らかな光が差し込むようなもの。
この光は、あなた自身が意図的に窓を開けて取り入れたわけでも、スイッチを押したわけでもありません。
光は自ずと差し込み、あなたの内なる世界のすべてを、静かに確実に照らし出します。
これが回心の本質です
他力の道は、自ら切り開くものではありません。
すでに目の前にあるもの、私たちは気づかなかっただけなのです。
回心によって気付かされ、自然に他力の道を歩めるようになる
そのようなイメージを持たれると、わかりやすいでしょう。
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