歎異抄の第十七条では、二種類の浄土の姿が説かれています。
化身土(けしんど)と真仏土(しんぶつど)。
化身土は仮の浄土で、真仏土は本物の浄土
という理解でOKです。
とはいえ、浄土に二種類あるなんて、平等ではないような気がしませんか?
本記事で原文を現代語訳で私訳し、わかりやすく解説します。
ぜひ、さいごまでお付き合いください
それでは、はじめていきましょう🎵
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歎異抄(たんにしょう)第十七条をわかりやすく現代語訳で私訳
ぼくなりの視点と解釈で、わかりやすく現代語訳で私訳しています。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
たとえ浄土に導かれたとしても、そこが浄土の片隅であれば、いずれは地獄に落ちる
などと言っている人がいるらしい。
なんとまぁ勝手な解釈をするものだ。。。
どこぞの偉いお坊さまが仰っているそうだが、全くもって間違っている。
脈々と受け継がれた仏教の教えを、いったいどのように受け止めているのだろう?
かつて親鸞さまは、
本当の信心を得られなかった人であっても、浄土に必ず導かれる。
たとえその場所が浄土の片隅の方であっても、阿弥陀仏を疑った罪を償えば、悟りをひらけるのだ。
と、仰っていた。
心の底から阿弥陀仏の慈悲を喜び、念仏をするものが少ないため、浄土の片隅に参るものが多くなるかも知れない。
それはどうしようもないことだ。
だからと言って、浄土に参っても
へんぴなところであれば、いずれ地獄に落とされてしまう
などという意見は、釈尊を嘘つきと言うようなものだ。
第十七条の原文を現代語訳で書き下し
辺地往生をとぐるひと、つゐには地獄におつべしといふこと。
この条、なにの証文にみへ候ふぞや。
学生だつるひとのなかに、いひいたざるることにて候うなるこそ、あさましく候へ。
経論正教をばいかやうにみなされて候ふらん。
信心かけたる行者は、本願をうたがふによりて、辺地に生してうたがひの罪をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはり候へ。
信心の行者すくなきゆへに、化土におほくすすめいれられ候ふを、つゐにむなしくなるべしと候ふなるこそ、如来に虚妄を申しつけまひらせられ候ふなれ。
歎異抄(たんにしょう)第十七条を解説
歎異抄の第十七条を読まれて、
浄土の片隅に導かれたら、すぐに悟りを開けないかも?って、
人によって違いがあるなら、平等とは言えなのでは?
と、なんだかモヤっとしてしまった方、多いのはないでしょうか?
ぼくも初めて十七条を読んだときは、同じことを感じましたよ
本記事では、理解しやすくするために「浄土の片隅」と表現してみました。
浄土の片隅、つまり”仮の浄土“が存在しているのです。
本当の信心をいただいていなければ、仮の浄土に導かれる
↓
仮の浄土で罪を償えば、本物の浄土に参れる
ということのなのですが、なんだかノルマみたいですよね。。。
もう少し深めて解説していきます。
化身土と真仏土
拒絶反応が出てきそうなキーワードですが、もう少しお付き合いくださいw
浄土は「化身土(けしんど」と「真仏土(しんぶつど)」の二つに分けることができます。
それぞれをわかりやすくまとめてみると、以下のとおり。
化身土(けしんど) | 真仏土(しんぶつど) | |
---|---|---|
定義 | 方便として現れる仮の浄土 | 阿弥陀仏の本来の浄土 |
特徴 | 自力の行者が往生する場所 | 他力の信心を得た者が往生する場所 |
目的 | 真仏土に導くための浄土 | 一切を救済する究極の浄土 |
どのような者であっても、いずれはみんな同じ浄土(真仏土)に導かれるということですね。
しかしながら、これを本当に平等の救いと言えるのか?聞かれると疑問が残ります。
阿弥陀仏は分け隔てなく救うを誓われたのに、しっかり分類されているじゃないか?
と思われる方もおられるかも知れませんね。
これにもしっかりと理由があるのです。
戒めとしての化身土
仮に、阿弥陀仏が分け隔てなく、全ての人を同じ浄土へ導くとされたら、どうなるでしょうか?
つまり、”化身土が存在しない場合”を想定してみると、
どうせ最後は救われるんだから、好き勝手に生きれば良い
というように考える方が出てくるでしょうね。
この考えは、浄土真宗の教えを根本的に取り違えています。
好き勝手に生きるということは=自分本位に物ごとを考えてしまう、ということ。
仏教では、我執(自分に捉われてしまうこと)を強く否定します。
仏教の根本的な教えの一つである「無我」に反するということですね
もしも、化身土がなければ、完全に無法地帯。
どうせ救われるなら、悪いことをしてもいい、罪を犯してもいいじゃないか!
第三条「悪人正機説」の誤った理解と同じ。
そのような誤解を回避するために、浄土に化身土をおき、あくまでも他力の道へ導くように説かれているわけです。
化身土を理解することは、自分自身を見つめ直すきっかけになります。
自分勝手な考えから抜け出し、他の人への思いやりを深める道として理解しておきましょう。
歎異抄(たんにしょう)第十七条についてのまとめ
歎異抄第十七条は、浄土往生の深遠な教えを明らかにしています。
化身土と真仏土という二つの浄土の概念は、単なる場所の区別ではありません。
人間の救済と精神的成長を導く重要な教えです
阿弥陀仏の無限の慈悲により、最終的にはすべての人が真仏土へと導かれます。
化身土の存在は人々に自己を省み、他者への思いやりを深める機会を与えます。
これは仏教の根本精神である「無我」を具現化する、きわめて深遠な救いの叡智として受け止めることができるでしょう。。
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