あなたは日頃、法事や葬儀でお布施を納めるとき、どのような気持ちでしょうか?
たくさんお布施をすれば、より大きな功徳が得られるのでは?
少ないお布施では申し訳ない。。。
こうした考えは、実は仏教の本質からかけ離れています。
歎異抄第十八条で、唯円は「不可説なり、不可説なり」と強い口調で、このような考え方を否定しています。
その背景には、当時から存在していた「お布施の量と功徳の大小を結びつける」という誤った考え方への深い憂慮がありました。
とんでもない間違いです。。。
では、お布施とは本来どのような意味を持ち、どのような心持ちで行うべきものなのでしょうか。
今回は、お布施の本質的な意味と、私たちが持つべき心構えについて、詳しく見ていきたいと思います。
それでは、始めていきましょう。
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歎異抄(たんにしょう)第十八条をわかりやすく現代語訳で私訳
ぼくなりの視点と解釈で、わかりやすく現代語訳で私訳しています。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
お布施の額が大きければ大きな仏になり、小さければ小さな仏になる
などという、主張があるらしい。
信じられない。。。
情けない限りだ。。。
そもそも、仏に大小の概念などない。
もちろん、経典には阿弥陀仏の大きさを語る文言はあるが、それはあくまでも方便に過ぎない。
真の仏の姿とは、
- 長短もない
- 色もない
- 匂いもない
つまり、大きさを語るなど、論外なのである。
念仏を称えれば、仏の姿を仰ぐことができる、ということもあるらしい。
たしかに経典にも、以下のような文言が出て参る。
大きな声で念仏を称えれば、大きな仏を見、
小さな声で念仏を称えれば、小さな仏を見る
この「念仏」を「お布施」にすり替え、自分たちの都合の良いようにこじつけたのかも知れない。
寺院への寄付・お布施は行の一つではある。
しかし、真実の信心がなければ、どんなに高価な財宝を仏前に供え、どんなに多額をお布施を僧に渡したとしても、全く意味はないと心得るべきである。
貧しく、小銭すら寄進することのできない方であっても、阿弥陀仏の他力を深く信じ、本願におまかせする心をお持ちであれば、お布施の大小にかかわらず、阿弥陀仏はお救いくださるだろう。
お布施の額が仏の大小にかかわるなどという説は、断じて許されるものではない。
つまるところ、お金や財宝を手に入れて、私腹をこやしたい劣悪な連中が拡めた悪だくみに違いない。
念仏を大事にしている仲間を兄弟とも思わないような、極めて情けない話である。。。
第十八条の原文を現代語訳で書き下し
仏法の方に、施入物の多少にしたがって、大小仏になるべしといふこと、この条、不可説なり、不可説なり。
比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量をさだめんことあるべからず候ふか。
かの安養浄土の教主の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。
法性のさとりをひらひて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒の色をもはなれなば、 なにをもってか 大小をさだむべきや。
念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、
「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」
といへるが、もしこのことはりなんどに、はしひきかけられ 候ふやらん。
かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし。
いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなばその詮なし。
一紙・半銭も仏法のかたにいれずとも。他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。
すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆへに、同朋をいひをとざるるにや。
歎異抄(たんにしょう)第十八条を解説
不可説なり、不可説なり。。。
同じことばを2回繰り返す、唯円の静かで激しい怒りが表われています。
お布施が多ければ大きな仏さまになり、少なければ小さな仏さまになる。
全くもって間違った理解です。
他力の念仏の教えとは、ずいぶんとかけ離れてしまっています。
そもそも、お布施ってなに?
改めて、お布施の意味をお伝えしておくと、
仏教徒が欲を捨て、見返りを求めずに施すこと
もう少し噛み砕くと、感謝の証と考えるのがわかりやすいですね。
では、何に対してのお布施なのか?というと、法施(ほうせ)がそれにあたります。
僧侶が正しい教えを解き示すこと
つまり、読経であったり、お説教であったり。
お布施をいただくから、お経を読んだりお説教をするのではありません。
全く逆です。
読経・お説教に対するお布施なのです。
順番は法施→お布施
お参り先で、少数派ではありますが、読経をする前にお布施をいただくことがあります。
厳密に言えば、これは正しくありません。
葬儀の際は、儀式を円滑にすすめるため、開式前にいただくことが多いです。
また、ごくマレに
法事をお勤めする前に、お寺にお布施を持ってきなさい
というご寺院もあるそうですが、全くの間違い。
この第十八条に書かれているように、自分のことを神とでも思っているような傲慢な考えです。
(ちょっと言い過ぎました、、、)
見返りを求めることが間違い
仏教において、見返りを求めることは、欲望の一つとして捉えています。
つまり、自身の苦しみの根源となるわけですね
この心は執着を生み出し、期待通りの見返りが得られないと、不満や怒りを引き起こしてしまうのです。
見返りを求めてしまうと、、、
- 純粋な気持ちで行動できない
- 期待外れだと、失望や怒りが生まれる
- 本当の幸せから遠ざかってしまう
など、結果として自身を苦しめてしまうことに。
では、どのような心の持ち方が良いのでしょうか?
具体的には、以下の3点を意識すると良いです。
- 行動そのものに価値を見出す
- 結果にこだわらない
- 相手や状況への感謝の気持ちを大切にする
つまるところ、仏教が大事にしている「利他」のこころですね。
「与える」ことに喜びを感じ、相手や状況への感謝の気持ちを大切にすることが重要となります。
見返りを完全になくすことは難しいですが、その気持ちに気づき、コントロールすることが大切なのです。
歎異抄(たんにしょう)第十八条についてのまとめ
お布施の本質は、見返りを求めない純粋な感謝の表現にあります。
唯円が「不可説なり」と繰り返したのは、お布施の多寡で仏の大小が決まるという誤った考えへの強い否定を表しています。
お布施は本来、僧侶による法施(読経やお説教)への感謝として後からなされるべきものであり、決して取引や見返りを期待するものではありません。
このような見返りを求める心は、かえって執着や不満を生み、自身を苦しめることになります。
真の仏教的な心構えとは、、、
- 行動自体に価値を見出すこと
- 結果にこだわらないこと
- 感謝の気持ちを大切にすること
つまり、利他の精神に基づき、「与える」という行為そのものに喜びを見出し、純粋な感謝の心を持つことが重要です。
見返りへの執着を完全になくすことは難しくても、そうした気持ちに気づき、コントロールしていく努力が大切なのです。
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