本記事は、歎異抄(たんにしょう)の第四条を現代語訳で私訳し、解説したものです。
第四条では「慈悲(じひ)」を以下の二種類に分けて深く考えられています。
- 聖道門(しょうどうもん)の慈悲
- 浄土門(じょうどもん)の慈悲
離脱しそうになったあなた、もう少しお待ちをw
先にかんたんにお伝えすると、人の慈悲と阿弥陀さまの慈悲とでは、意味は同じでも対象が全く違いますよ、ということです。
これだけだと意味不明ですよね。。
本記事でわかりやすく解説しますので、ぜひさいごまでお付き合いください。
それでは、始めていきましょう🎵
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歎異抄(たんにしょう)第四条を現代語訳でわかりやすく私訳
ぼくなりの視点と解釈で、親鸞聖人と唯円が会話しているような様子で表現してみました。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽のコメントをいただけると嬉しいです。
- 浄土真宗の宗祖
- 法然聖人を師と仰ぐ
- 1173年5月21日〜1263年1月16日
- 親鸞聖人のお弟子さん
- 歎異抄の著者とされる
- 1222年〜1289年2月27日
親鸞さま、「慈悲(じひ)」について教えていただけませんか?
そうだね、慈悲には二つの種類があると思っているんだよ。
- 聖道門(しょうどうもん)
- 浄土門(じょうどもん)
聖道門と浄土門?
詳しく知りたいです。
まず、聖道門の慈悲は、他人やすべてのものをかわいそうに思って、悲しんだり、いたわったりすることで、自分の力で他の人びとを救うことなんだ。
でも、自分の思うように人を救うなんて、すごく難しいですよね
そうだな。
もう一つの浄土門の慈悲は少し違うんだ。
すべての人は、念仏によって、まず浄土に生まれて仏となる。
その結果、阿弥陀さまと同じ力を得て、他の人びとを救うという考え方なんだ。
どんなに可哀想な人がおられても、自分たちの力だけで救うなんて、とてもできないです。。。
そんな私たちであるからこそ、ひたすらお念仏を称えるしかないのだよ。
それこそが、本当の意味での慈悲と言えるだろう。
第四条の原文を現代語訳で書き下し
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもふがごとく、たすけとぐること、きはめてありがたし。
浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
今生に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば、念仏申すのみぞ、すえとほりたる大慈悲心にてべきと云々。
【聖道門と浄土門】歎異抄(たんにしょう)第四条を解説
聖道門(しょうどうもん)と浄土門(じょうどもん)。
見ただけで拒否反応が出てきそうな専門用語ですねw
実はそんなに難しいことばでもないんです。
聖道門と浄土門は、仏道を歩むに当たっての二つの入り口です。
簡単に言うと、
- 聖道門→自分の力で悟りをひらく道筋
- 浄土門→仏さまの力で悟りをひらく道筋
浄土真宗は後者の浄土門の教えです
詳しく見ていきますね。
聖道門と浄土門の違い
聖道門と浄土門の違いを表にまとめると、以下のような感じになります。
聖道門 | 浄土門 | |
---|---|---|
目的 | 生きているうちに悟りをひらく | お浄土で悟りをひらく |
方法 | 厳しい修行や戒律で自分を高める | ひたすら仏さまを信じ念仏を称える |
考え方 | 自分の力を信じる | 仏さまの力を信じる |
有名な宗派 | 曹洞宗、天台宗など | 浄土宗、浄土真宗など |
どちらが正しいというわけではありません。
登山をするとしても、山頂までいろいろな道(手段)がありますよね。
- 自分の足で歩いて山頂を目指す。(聖道門)
- ロープウェイの力で山頂を目指す。(浄土門)
どちらも同じ山頂にたどり着くのですが、行く道が違うわけです。
でも、どちらがかんたんですか?と聞かれると、圧倒的に後者(浄土門)ですよね。
親鸞聖人が師と仰ぐ法然聖人が説いておられたお念仏の教えは、易行(いぎょう)の念仏。
つまり、
老若男女を問わず、お念仏を称えるだけで必ず救われる
「南無阿弥陀仏」だけでOK!という、とても易しい教えなんですよね。
どんなに小さなお子さんでも、足の不自由な方でも、ロープウェイに乗れば超かんたんに山頂を目指すことができます。
平等の救いを説くのであれば、浄土門以外の道はない、ということになるわけです。
人の慈悲と仏の慈悲
第四条で、もう一つ重要なキーワードとなるのが「慈悲(じひ)」です。
原文では以下のとおり。
慈悲に 聖道浄土の かはりめあり
現代語訳すると、
慈悲には聖道と浄土の二種類がある
これ、わかりにくいですよねw
ぼくなりに超かんたんにしてみると、
慈悲には、人の慈悲と阿弥陀さまの慈悲との2種類がある
と言い換えることができると思っています。
断然わかりやすくなったのではないでしょうか?
もう少し深掘りしていきます。
人の慈悲
慈悲ということばを辞書で調べてみると、以下のように解説されていました。
仏、菩薩の衆生をあわれむ心。
楽を与える慈と、苦を除く悲とをいう。
この解説のとおり、慈悲というのは阿弥陀さま目線のことばです。
しかし、少々おこがましいですが、わたしたち”人”にも慈悲のようなこころはありますよね。
一番わかりやすいのが「親が子を思うこころ」です。
子が苦しんでいる姿は、親にとってはたまらないもの。
少しの発熱であっても、なんとかして楽にしてやりたいと思うものです。
我が家にもまだ幼い娘がいますが、辛そうにしていると心配でたまりません
見返りを一切求めず、苦しみを取り除いて楽にしてあげたい
紛れもなく「慈悲」のこころと言えるでしょう。
しかし、私たち人にとっての慈悲のこころは、かなり限定的なものです。
親子の関係以外では、なかなか成立しないかもしれません。
つまり、
人の慈悲は不平等である
と言えるのではないでしょうか?
赤の他人に対して、親が子を思うようなこころで接することは極めて難しいですよね。
電車で見知らぬお年寄りに席を譲ったとしても、心配でたまらないから自宅まで送ってあげたいとはなかなか思わないでしょ?w
私たちの慈悲のこころには、限界があります
この限界を突破した慈悲のこころが「阿弥陀さまの慈悲」となるわけです。
阿弥陀さまの慈悲
人の慈悲は「親が子を思うこころ」と前述しました。
阿弥陀さまの慈悲も基本的には同じです。
ただ、対象が「衆生(しゅじょう)」という超広範囲になるんですよね
衆生とは、「生きとし生けるもの」という意味。
阿弥陀さまの慈悲は一切の分け隔てがないということです。
つまり、
阿弥陀さまの慈悲は平等である
ということになります。
全てのいのちを我が子のように見ておられるということ。
本当の慈悲のこころを得たければ、まずは仏と成らせていただくことが大前提。
仏と成ったのち、阿弥陀さまと同じ慈悲のこころで、すべてのいのちを我が子と思えるようになるのです。
まとめると、
- 本当の慈悲は阿弥陀さまの慈悲
- 本当の慈悲は仏にならなければ得られない
- 仏になるにはお念仏を称えるしかない
ということになり、やっぱりお念仏がいちばん大事だよね、というのが第四条の真意であると考えています。
歎異抄(たんにしょう)第四条についてのまとめ
以上、歎異抄の第四条を会話形式で私訳し、慈悲について解説してみました。
さいごにザッとまとめると、
- 慈悲には聖道門の慈悲と浄土門の慈悲がある
- 聖道門の慈悲は自分(人)のこころ
- 浄土門の慈悲は仏さま(阿弥陀さま)のこころ
- 本物の慈悲は浄土門でのみ得ることができる
上記の4点が、第四条を理解する上で重要なポイントとなるでしょう。
あの人はなんて慈悲深いんだ。。。
なんて言ったりしますが、慈悲ということばは、あまり人に対して使うものではありませんねw
シンプルに「優しい」に置き換えるのが良いかも?
とはいえ、どんな人が相手であっても、なるべく慈悲のこころで接したいものです。
いっときであっても、楽を与え、苦を取り除くことができるかもしれませんから。
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