本記事は、歎異抄(たんにしょう)の第八条を現代語訳で私訳し、解説したものです。
第八条は念仏について。
第六条の信心についてのお話と、よく似ています。
念仏は、行者のために非行非善なり。
第八条は、この一文から始まります。
「念仏を称えることは、修行でもなければ善い行いでもない」ということなんですが、何ともわかりいくいですよねw
本記事で具体例を交えてわかりやすく解説します。
ぜひ、さいごまでお付き合いください🎵
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歎異抄(たんにしょう)第八条を現代語訳でわかりやすく私訳
ぼくなりの視点と解釈で、親鸞聖人と唯円が会話しているような様子で表現してみました。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
- 浄土真宗の宗祖
- 法然聖人を師と仰ぐ
- 1173年5月21日〜1263年1月16日
- 親鸞聖人のお弟子さん
- 歎異抄の著者とされる
- 1222年〜1289年2月27日
念仏とは、それを称える者にとって、非行・非善である
親鸞さま、このことについてもう少し深く教えていただけませんか?
うむ。
念仏を称えることは、自分の意思から起こるものではない。
ゆえに、修行でもなければ、善行でもないのだよ。
でも、念仏を称えているのはこの私であり、この私の口から出てくるものですよね?
では聞くが、念仏はお前がつくりあげたものなのか?
いえ、決して私がつくったものではありません
そう、念仏はお前がつくったものでもなければ、お前が修行のために称えているものでもないだろう?
はい、仰るとおりです。
では、念仏をどのように味わえば良いのでしょうか?
念仏は、阿弥陀さまの他力によって口から出てくるもの
このように考えると、修行でもなければ、善行でもないと味わうことができよう
なるほど。
とても納得できました
第八条の原文を現代語訳で書き下し
念仏は、行者のために非行非善なり。
わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。
わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。
ひとへに、他力にして自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行非善なりと云々。
歎異抄(たんにしょう)第八条を解説
念仏は、修行でもなければ善行でもない
なんとも哲学的な言い回しで、拒否反応が出る方もおられるかもですw
要は「自分の行いではない」ということになるのですが、わかりにくいですよね。
親鸞聖人のお考えで言うなら、
念仏は阿弥陀仏より頂いたもの
と、表現するのが正しいです。
つまり、自分の考えや思い、感情から出てくるものではない、ということになります。
わかりやすくするために「念仏」を「涙」に置き換えてみましょう。
念仏は自然と流れる涙のようなもの
嬉しいときや悲しいとき、悔しいとき、涙は自然にポロリとこぼれてきます。
歳を重ねると余計に涙もろくなるというか、SNSのちょっとした感動ストーリーでも涙が出てくることが増えてきましたw
本来、涙は嬉しいときに出てくるものなんだとか。
たしかに、自分の過去を振り返ってみると、大半は嬉しいときに泣いていたように思います。
そんなとき、
とても嬉しかったから、今から泣こう
なんて考える方、おられませんよね?w
気がつけば泣いていた、というのが自然な表現になるでしょう。
いちど流れてくると、自分でコントロールすることが難しいてすよね。
私たちの口から出てくる念仏も、この涙のメカニズムと同じなんです。
阿弥陀さまのお救いがありがたくて、つい出てきてしまうもの
これが浄土真宗のお念仏なんですよ。
自分の意思でもなく、自己鍛錬の修行でもない、しぜんと口から出てくるものです。
これが親鸞聖人の念仏の解釈。
非行であり、非善であるという謂れです。
現代に生きる私たちにとっての念仏
では、現代を生きる私たちにとって、このような念仏の考え方はどのような意味を持つのでしょうか。
多くの人が、日々の生活の中で何かしらの目標を持ち、それに向かって努力しています。
仕事での成功、資格の取得、健康維持のための運動など、私たちの生活は「自分の力で何かを達成する」という考えに満ちていますよね。
しかし、親鸞聖人の教えは、そのような「自力」の考えから私たちを解放してくれるもの。
念仏が自分の力によるものではないという教えは、私たちに大きな安心を与えてくれますよね
例えば、日々の生活で感じる様々なプレッシャーやストレス。
- もっと頑張らなければ
- もっと良い結果を出さなければ
という思いに押しつぶされそうになることはありませんか?
そんなとき、念仏は私たちに「あなたはあなたのままでいい」というメッセージを届けてくれます。
自分の力だけを頼りにせず、阿弥陀さまの大いなる力に身をゆだねることができるのです。
お念仏の「自然さ」について
先ほどの涙の例えに戻りましょう。
涙が自然と流れるように、念仏も私たちの心の中から自然と湧き出てくるものです。
決して強制されたものでも、計画的なものでもありません
むしろ日常生活の中で、ふと「南無阿弥陀仏」と口から出てくる。
それは、疲れたとき、嬉しいとき、悲しいとき、様々な場面で起こりうることです。
まるで、身近な家族に「ただいま」と言うように、自然な形で阿弥陀さまとつながることができるんですよね。
このような「自然さ」は、現代社会において特に重要な意味を持っています。
私たちは常に「効率」や「成果」を求められ、自然な感情や行動を抑制しがちです。
しかし、念仏を通じることで、私たちは本来の自然な在り方を取り戻すことができるのではないでしょうか。
歎異抄(たんにしょう)第八条についてのまとめ
念仏は決して特別なものではありません。
日常生活の中で、自然と湧き出てくるもの
それは、阿弥陀さまとの深いつながりを感じさせてくれる、大切な縁なのです。
「修行でもなければ行いでもない」という言葉の真意は、私たちに大きな解放と安心を与えてくれます。
自分の力だけでなく、阿弥陀さまの大いなる力に支えられているという実感。
これこそが、念仏の本質なんです
日々の暮らしの中で、自然と「南無阿弥陀仏」と口をついて出てくるとき、それは単なる習慣や行為ではなく、阿弥陀さまとの深い縁を感じる瞬間なのです。
そして、そのような瞬間を重ねていくことで、私たちは少しずつ、本当の意味での安心を見出していくことができるのです。
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