第九条は、唯円による衝撃的な一言から始まります。
念仏を称えても、嬉しいと思えないのです。。。
師である親鸞聖人がもっとも大切にしているものを、言わば否定するわけですよ。
相当な覚悟があったことでしょう。
怒られるかもしれない、いや縁を切られてもおかしくないだろう。
それでも、聞かずにはいられなかった唯円。
そして、そんな気持ちをすべて受け止めて、真正面から向き合う親鸞聖人。
2人は師弟を超え、同志とし語り合います。
第九条は歎異抄の中でも、いちばん魅力を感じますw
本記事は、そんな第九条をわかりやすく現代語訳で私訳し、解説したものです。
ぜひ、さいごまでお読みいただき、第九条の魅力に触れてみてください。
親鸞聖人のお答えはいかに、、、
それでは、はじめていきましょう🎵
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歎異抄(たんにしょう)第九条を現代語訳でわかりやすく私訳
ぼくなりの視点と解釈で、親鸞聖人と唯円が会話しているような様子で表現してみました。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
- 浄土真宗の宗祖
- 法然聖人を師と仰ぐ
- 1173年5月21日〜1263年1月16日
- 親鸞聖人のお弟子さん
- 歎異抄の著者とされる
- 1222年〜1289年2月27日
親鸞さま、どうしてもお尋ねしたいことがございます。。。
おぉ、そうなのか。
遠慮せず、なんでも言ってみよ
毎日、念仏を称えていても、心が躍るような喜びを感じることができないのです。。
また、早くお浄土に参りたいとも思えない。。。
これはいったい、どうしたことでございましょうか?
そうか。。。
唯円よ、お前もそうであったか。
実は私も同じことを考えるときがあるのだよ
えぇ!?
親鸞さまも、ですか?
そうなのだよ。。
しかし唯円よ、よくよく考えてみよ。
本来なら天にも地にも届くほどの大きな喜びを感じるはずなのに、それが感じられない。
また、すぐにでも浄土に行きたいと思えない。
これこそが私たちの往生は間違いない証拠ではないだろうか?
・・・
どういうことでしょうか?
喜ぶべきことを喜べないのは”煩悩”が原因なのだ。
欲望にまみれ、この世への執着を離れることができないこの私。
そんな私たちのことを「煩悩具足の凡夫」という。
凡夫。。。
阿弥陀さまはよくよく私たちのことをご存知であるということでしょうか?
その通り。
こんな私たちをまずは救おうとされているのが阿弥陀さまなのだよ
なるほど。
そのように考えると、阿弥陀さまの願いがとてもありがたいものに思えますね。
それに、少し体調を崩すだけで「もう死んでしまうのではないか」と不安になることも煩悩が原因なのだよ。
長い間慣れ親しんだこの世界を離れがたく、まだ見ぬ浄土が恋しく思えないのは当然のことなのだ。
はい、私もまだまだこの世を捨てがたい気持ちです
どれほど名残惜しくても、人は必ずこの世との縁が尽きて、命が終わるときがやってくる。
そのとき私たちは必ず浄土へ参らせていただけるだろう。
阿弥陀さまの大いなる慈悲が一層頼もしく思えます
深い喜びも、浄土に急ぎたい気持ちもない、それは煩悩があるからこそ。
それを理解している人こそが、本当の意味で救われるのだ。
第九条の原文を現代語訳で書き下し
念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころ、おろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へ参りたきこころの候はぬは、いかにと候べきことにて候ふやらんと、申しいれて候いしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房 おなじこころにてありけり。
よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまふなり。
よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし。
われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
また浄土へいそぎまひりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも煩悩の所為なり。
久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候うにこそ、なごりおしく思へへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしておはるときにかの土へはまひるべきなり。
いそぎまひりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく往生は決定と存じ候へ。
踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまひりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ふらひなましと云々。
歎異抄(たんにしょう)第九条を解説
唯円は、こころのなかのシコリをさらすかのように、2つの疑問を親鸞聖人に投げかけました。
もう一度振り返っておくと、
- 念仏を称えても、深い喜びを味わえない
- はやくお浄土に参りたいと思わない
以上の2点。
率直な意見として、よくこんなことを聞けたなぁと思いますw
冒頭でも触れましたが、相当な覚悟と勇気が必要だったはず。
そして、”親鸞聖人なら真正面から受け止めてくださるだろう“という、確信めいたものがあったに違いないと、ぼくは思うのです。
何とも美しい人間関係ですよね。
現代でも、なかなかこのような関係は築けません。
唯円の素直さと、親鸞聖人の偉ぶらないお人柄を感じることができますね。
念仏を喜べないのは、煩悩が原因
唯円の衝撃的な発言をうけての親鸞聖人の第一声は、
私も同じことを考えていたんだよ
というものでした。
このことばを聞いた唯円は、驚きとともに胸を撫で下ろすような気持ちだったでしょうね。
そして「念仏を心から喜べないのは、私たちが煩悩をかかえているからである」とお答えになったのです。
え?そんな答えでいいの?
と思われた方もおられるでしょう。
どんなに歳を重ねても次々と湧き起こる欲望や怒り、愚痴。
それは当時80歳を迎えられた親鸞聖人でさえも、決して拭い去ることのできない煩悩によるものだったのです。
煩悩があるから念仏を心から喜べない
こころのどこかでは、
- 本当に念仏だけで救われるのだろうか?
- 本当にお浄土は存在するのか?
- 本当に阿弥陀さまはおられるのか?
などの、どうしようもない疑問が現れては消え、消えては現れ。。
しかし、煩悩を抱えてしか生きていけない私たちこそを救うと約束されたのが阿弥陀さまという仏さまなのです。
唯円が感じているような疑問を持っているものこそが、救いの対象であるはずだ
というのが親鸞聖人の第一の回答になるでしょう。
早く浄土に参りたいと思わない理由
さて、唯円のもう一つの疑問についても見ていきましょう。
はやくお浄土に参りたいと思わない
というものでしたね。
これについては、多くの方が共感されるのではないでしょうか?
ぼく自身も、お浄土がどんなに素晴らしい世界であっても、早く参りたいとは思わないですw
浄土に参る=命が終わる
ということになりますから、大前提として、誰もが恐怖を抱く大問題です。
まして、早く自分の命が尽きればいいなんて、なかなか思えませんよね。
親鸞聖人は、命が尽きることを「娑婆との縁が尽きる」と表現されました。
私たちが今ここにいることは、数えきれない無数の縁によって成立しています。
その縁はいつ、どこで、どのように尽きるのか?も分からないということも認知しているはず。
にもかかわらず、この世に執着してしまうのは、なぜか?
これについても、親鸞聖人は煩悩が原因であると仰っいました。
いま一度、阿弥陀さまの願いをかえりみると、煩悩を捨てきれないものこそを救いたいと願われていましたね。
第三条「悪人正機」を振り返るとわかりやすいです。
つまり、
- 浄土に参りたいと思わない
↓ - 原因は煩悩である
↓ - 煩悩によってこの世に執着してしまう
↓ - 煩悩をなくすことは極めて難しい
↓ - 煩悩を抱えてしか生きていけない
この流れに気づいたものこそ、真の救いの対象であると、親鸞聖人は伝えたかったのです。
歎異抄(たんにしょう)第九条についてのまとめ
親鸞聖人が唯円に示した答えは、八百年の時を超えて、現代を生きる私たちにも深い示唆を与えています。
煩悩を抱えながらも、それを認識し受け入れていく
これこそ、真の救いへの道であるという教えは、現代社会においてますます重要性を増しているのではないでしょうか。
私たちは、完璧な信仰や完璧な生き方を目指すのではなく、あるがままの自分を受け入れ、その上で阿弥陀さまの救いを信じて生きていけば良いのです。
それこそが、親鸞聖人が示そうとした生き方に違いありません。
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