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歎異抄にみる「慈悲」の思想:真宗の根底にある愛

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ヨシボウ

こんにちは!
ヨシボウです

突然ですが、あなたは「慈悲」ということばに、どのようなイメージをお持ちでしょうか?

多くの人は、「困っている人に手を差し伸べる優しさ」や「哀れみの心」などを思い浮かべるかもしれません。

もちろん、それも素晴らしいこころのはたらきです。

しかし、親鸞聖人の教えを記した『歎異抄』が示す「慈悲」は、私たちが普段考えているものとは、少し、いや、まったく違う次元にあるのかもしれません。

それは、私たちが誰かに与えるものではなく、すでに見返りを求めることなく私たちに注がれている、大きな愛のようなもの。

この記事では、『歎異抄』第四条を中心に、真宗の根底に流れる「慈悲」の思想について、仏教初心者さんにもわかりやすく、そして深く掘り下げていきたいと思います。

読み終えるとき、あなたの「慈悲」に対するイメージがガラリと変わり、心がふっと温かくなる。

そんなひとときをお届けできれば幸いです。

どうぞ、さいごまでお付き合いください。

この記事を書いた人
ヨシボウ
  • 浄土真宗本願寺派の現役僧侶
  • ブログ歴3年、5サイトを運営
  • 趣味はブログと読書と朝活
  • マインドフルネススペシャリスト資格所持

@yoshi_bows

目次

私たちの「慈悲」が抱える限界

まず、私たちが普段「慈悲」と呼んでいるこころについて考えてみましょう。

例えば、道端で泣いている子どもを見かけたら、「どうしたの?」と声をかけたくなりますよね。

我が子が熱を出せば、心配でたまらなくなり、何とかして楽にしてあげたいと願うはずです。

これは、見返りを求めない純粋な「慈悲」のこころと言えるでしょう。

しかし、この私たちの慈悲には、どうしても超えられない壁、つまり「限界」が存在するのです。

聖道門の慈悲 — 自分の力で救うということ

『歎異抄』の第四条では、慈悲に二つの種類があると説かれています。

一つが「聖道門(しょうどうもん)の慈悲」。

聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。

しかれども、おもふがごとく、たすけとぐること、きはめてありがたし。

これは、自分の力で、他者を哀れみ、いつくしみ、助けようとすること。

まさに、私たちがイメージする慈悲そのものです。

しかし、親鸞聖人のお弟子さんである唯円(ゆいえん)は、「思うように助けきることは、きわめて難しい」と続けています。

考えてみれば、そのとおりですよね。

自分の子どもや親しい友人になら、深い愛情を注げるかもしれません。

しかし、まったく見ず知らずの他人にまで、同じように心を配り、助け続けることができるでしょうか?

電車でお年寄りに席を譲ることはできても、その方の人生の苦悩すべてを背負うことはできません。

私たちの慈悲は、どうしても対象を選んでしまう。

そして、どこまでいっても「自分の力でできる範囲」という限界から逃れることはできないのです。

自分の力を頼りにして、悟りを開こうとする道を「聖道門」といいます。

厳しい修行や難解な学問によって、自らの力で仏になろうとする道。

それはまるで、険しい山道を自分の足だけで一歩一歩登っていくようなもの。

素晴らしい挑戦ですが、誰もが山頂にたどり着けるわけではありません。

この「自力」による慈悲は、尊いけれども、はかなく、そして不平等さを内包しているのです。

阿弥陀さまの「慈悲」— すべてを包み込む大きな愛

では、もう一つの慈悲とは何なのでしょうか。

それが「浄土門(じょうどもん)の慈悲」です。

浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。

今生に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。

しかれば、念仏申すのみぞ、すえとほりたる大慈悲心にてべきと云々。

ぼくなりに、ものすごくかんたんに言い換えてみますね。

阿弥陀さまの慈悲とは、まず「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えて、仏さまにしていただくこと。
そして、仏になったその身で、分け隔てなく、すべての人々を思いのままに救うこと。

…少し、わかりにくいかもしれませんね。

ポイントは、順番と思考の方向性が、私たちの考える慈悲とはまったく逆だという点です。

まず、自分が救われる

聖道門の慈悲が「私があなたを救う」という矢印だったのに対し、浄土門の慈悲は「私がまず仏さまに救われる」というところから始まります。

自分の力では、誰一人として本当の意味で救うことはできない。

このどうしようもない現実。

だからこそ、まず阿弥陀仏という仏さまの力(他力)によって、自分が仏に成らせていただく。

仏に成るということは、阿弥陀さまと同じ、無限の知恵と慈悲の心を持つということです。

そのとき初めて、私たちは、親しい人もそうでない人も、善人も悪人も、すべてのいのちを我が子のように愛おしく思い、分け隔てなく救うことができる「本当の慈悲」を実践できるのです。

この、仏さまの力を頼りにして救われ、浄土で仏に成る道を「浄土門」といいます。

それは、険しい山道をロープウェイで一気に山頂まで運んでもらうようなもの。

老いも若きも、力の強い人も弱い人も、誰一人取り残されることなく、平等に山頂からの景色を眺めることができる。とても易しい道、「易行(いぎょう)」なのです。

つまり、お念仏を称えることこそが、究極の慈悲の実践になるのです。

なぜ「悪人」にこそ慈悲は向けられるのか

この阿弥陀さまの慈悲を考えるとき、避けては通れないのが『歎異抄』第三条の「悪人正機(あくにんしょうき)」の教えです。

善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。

(善人でさえ救われるのだ。まして悪人はなおさらだ。)

このことばは、しばしば「悪いことをした方が救われる」と誤解されてきました。

しかし、それはまったく違います。

善人とは、自分の力を頼りとする人

ここでいう「善人」とは、「自分の善い行いによって救われよう」と考える人のこと。

つまり、自分の力を頼りにする「自力」の人です。

彼らは、自分の力に自信があるからこそ、阿弥陀さまの慈悲にすべてをまかせることが、なかなかできません。

悪人とは、仏の力を頼りとする人

一方、「悪人」とは、どのような善い行いをしても消すことのできない煩悩を抱え、「自分は罪深く、自分の力ではどうしようもない存在だ」と知っている人のこと。

私たちは皆、他のいのちをいただいて生きていけませんし、心の中では誰かを妬んだり、嘘をついたりしてしまいます。

そんな、どうしようもない自分であると知っているからこそ、阿弥陀さまの「必ず救う」という慈悲の呼び声に、ただただ「おまかせします」と頭を下げるしかない。

自分の無力さを知る悪人こそが、阿弥陀さまの慈悲を100%受け取ることができる。

だから「悪人こそが、まっさきに救いの目当てになる」のです。

あくまでも、阿弥陀さまの慈悲は平等に降り注がれる

阿弥陀さまの慈悲は、太陽の光のようなもの。

太陽は、善人だから強く照らし、悪人だから弱く照らす、なんてことはありません。

すべての人に平等に降り注いでいます。

ただ、自力という分厚い傘をさしている善人には、その光が届きにくい。

一方、自分の非力さを知り、雨ざらしになっている悪人には、その光がさんさんと降り注ぐのです。

阿弥陀さまは、そんな私たちのありさまをすべてお見通しの上で、救いの手を差し伸べてくださっている。

これ以上の慈悲があるでしょうか。

あなたに向けられた、ただ一つの愛

『歎異抄』の後序には、親鸞聖人のこんなことばが記されています。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

(阿弥陀さまが、とてつもなく長い時間考え抜かれたご本願は、よくよく考えてみれば、この親鸞ただ一人のためであった。)

阿弥陀さまの慈悲は、「みんな」に向けられていると同時に、まぎれもなく「この、わたし一人」に向けられたものでした。

  • 誰かと比べる必要はない
  • 何かができる必要もない
  • ただ、そのままのあなたでいい

「必ず救う」という阿弥陀さまの慈悲は、今、この記事を読んでくださっている、あなた一人に、まっすぐに届けられているのです。

私たちが誰かを救おうと必死になる前に、まず、この大きな慈悲に“あなたが“包まれていることに気づくこと。

その安心感と喜びの中から、自然とあふれ出てくる「南無阿弥陀仏」のお念仏。

それこそが、『歎異抄』が示す、本当の「慈悲」の姿なのです。

まとめ

さいごに、本記事のポイントを振り返ってみましょう。

  • 私たちの慈悲(聖道門の慈悲):自分の力で他者を救おうとするもので、尊いが限界がある。
  • 阿弥陀さまの慈悲(浄土門の慈悲):まず自分が仏に成らせていただき、その力ですべてのいのちを救うという、広大で平等なもの。
  • お念仏を称えること:自分が救われ、そして他者を救う道につながる、究極の慈悲の実践である。
  • 悪人正機:自分の非力さを知る者こそ、阿弥陀さまの慈悲をまっすぐに受け取ることができる。

つまり、、、

阿弥陀さまの慈悲は、あなた一人にまっすぐ向けられている。

「慈悲」とは、何か特別な行いをすることではありません。

むしろ、自分の力の限界を知り、阿弥陀さまという大きな存在の無条件の愛に、ただ身をゆだねること。

日々の生活の中で、もしあなたが自分の無力さにうちのめされたり、誰かと比べて落ち込んだりすることがあったなら、この『歎異抄』の慈悲の思想を思い出してみてください。

あなたは、あなたのままで、すでに大きな愛に抱かれているのですから。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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