いよいよ最後。
『歎異抄』はこの後序をもって終わりを迎えます。
一般的な書籍で言うなら「あとがき」にあたるのですが、個人的にはものすごく重要な箇所であると考えています。
後序にこそ、浄土真宗の教えがギュッと凝縮されていると言っても過言ではありません。
そして、一番長いです。

書きそびれはないだろうか?
親鸞さまのお言葉を、もっともっと残しておきたい
唯円が、そんなことを思いながら命をかけて言葉を綴られていたのだろうと想像できます。
ぜひとも、唯円の思いをくみ取りながら読み進めていただけると嬉しいです。
それでは、はじめていきましょう。


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歎異抄(たんにしょう)後序をわかりやすく現代語訳で私訳


ぼくなりの視点と解釈で、わかりやすく現代語訳で私訳しています。
なお、後序はたいへん長いので、5つに区切ることにしました。
誤った理解の指摘やご意見があれば、気軽にコメントをいただけると嬉しいです。
①いただく信心はみな同じ
ここまで述べてきたことは、いったいどのような思い違いから生まれてきたのだろうか?
以前、親鸞さまが法然上人のそばで学んでおられたときのことをお話ししてくださったことがあった。
法然上人の弟子はとても多かった。
しかし、法然上人の信心を正しく理解しているものは少なかったらしい。
あるとき、弟子同志で信心について論争があった。
それは親鸞さまが、



わたしの信心も、法然上人の信心も、同じ一つのものである
とおっしゃったことが原因だった。
このことばに対し、同じ法然上人の弟子であった勢観房、念仏房などが激しく反対されたのである。
善信房(親鸞)とお師匠さまとの信心が同じなんて、とんでもない勘違いではないか!
というのだ。
このとき、親鸞さまは、このように答えられたそうだ。



法然上人の深い知識や才覚が、わたしのそれと同じだ、とは言っていません。ただ、仏の力によって浄土に参らせていただく信心は、全く同じである、と申しているのです。
それでも「そんなはずがない!」と反対するものが多かったので、直接、法然上人にうかがうことになった。
それぞれの主張を述べたあと、法然上人はこのように仰ったそうだ。
善信房のいうように、それぞれの信心は同じものだ。
なぜなら、わたしの信心は阿弥陀さまから賜ったものだから。
わたしの信心も、善信房の信心も、同じく阿弥陀さまから賜ったものである。
そのことには、何ら違いはない。
だから、わたしが賜った信心と違う信心を持つものは、わたしが参らせていただくお浄土に参ることは、
まずできないであろう。
そんなわけで、当時でさえこのような信心の取り違いがあったわけであるから、親鸞さまが亡くなられた今現在でさえ、信心に対する誤解や行き違いは当然起こるのである。



私が歎いたところで何の役にも立たないかもしれないが、少しでも正しい信心の受け取り方を知っていただきたく、こうして記してきたのだ
私の身も、枯れ草のように老いてしまった。
残りのいのちもいかばかりであろうか。
それでも生きていれば、念仏をよりどころとしている人たちからの疑問を聞き、親鸞さまのお言葉を伝えることもできる。
しかし、私がいなくなったらどうなってしまうだろうか。



とても心配だ。。。
もしも、ここに記したような疑問や論争に巻き込まれそうになったら、親鸞さまがたいせつにされていた経典に目を通してみてほしい。
方便と真意が入り混じったものもあるので、しっかりと内容を読み取らなければならない。
だからこそ、耳に残る親鸞さまのお言葉を、これまで述べてきた次第だ。
②五劫思惟の願
親鸞さまは日頃こんなことをよく仰っていた。



阿弥陀仏の力強いお誓いをよく考えてみると、親鸞わたし一人に向けられたものであった。
煩悩にまみれ、救いようのないこのわたし一人に。
なんともったいなく、ありがたいことである。
親鸞さまが七高僧と仰がれた一人、善導大師もこのようなことばを遺されていた。
自分は罪悪にまみれて生まれ、生き、死ぬ凡夫であり、永遠に輪廻の渦のなかに沈み、流転し、逃れることはできないと、知るほかない
親鸞さまのお考えとまさに重なる。
親鸞さまが「わたし一人に」と仰ったのは例えであり、私たちが抱える罪と阿弥陀仏のご恩に気付かずに、迷っていることを、お伝えくださったのである。
③火宅無常の世界
私たちは、阿弥陀仏のご恩をついつい忘れて過ごしている。
「善だ悪だ」と私たちのまなこを通して判断しがちである。



私たちの言う「善悪」とは何なのか、私にはわからない。
仏がはっきりと善と悪を認めたものであるなら、確かなことであろう。
私たちの暮らすこの世は、燃え落ちる家のように、はかなく無常である。
すべて空虚で偽りに満ちた、虚しい世界なのだ。
真実など、どこにもない。
その中で、「念仏」という確かなものだけが真実であり、人々の支えとなるのだよ。
親鸞さまはこのようなことを仰っていた。
念仏をよりどころとする人生を生きよ、という力強いお言葉である。
④『歎異抄』と名付く
日常の何気ない会話を耳にしていて、とても気になることがある。
念仏についてあれこれ語り合ったり、説明しようとされているとき、親鸞さまが全く仰らなかったことを、あたかも本当に聞いたかのように主張するものがいるのだ。



なんと情けないことか。。。
とても恐ろしいことである。
なんともやりきれない気持ちになってしまう。
この書(歎異抄)は、私(唯円)独自の意見ではない。
私は、経典を隅々まで理解しているわけではないし、研究し尽くしたわけでもない。
だから、間違って理解していることも多々あるだろう。
それでも、私の耳に残っている亡き親鸞さまのおことばのほんの一部を懸命に思い返し、ここに書き記した。
念仏をいただく身とならせていただいたが、真実の浄土へ参ることができるのだろうか?
片隅にしか参れなかったら、なんとも悲しいことである。
私と同じく、念仏を大事にしている方々の間に、”自分勝手な信心が芽生えないように”と切に願い、これを書き綴った。
親鸞さまの思い・み教えが、決して間違って伝わることのないよう、悲嘆にくれながら、本書を記す。



本書を名付け『歎異抄』としよう
同じ信心を抱く人以外には、決して見せないでほしい。
⑤流罪、そして愚禿親鸞の誕生
後鳥羽上皇がご在世のとき、法然上人は他力本願の念仏宗である浄土宗をひらかれ、世間に弘めておられた。
そのとき、奈良の興福寺の僧侶たちが朝廷に訴え、上人の弟子のなかに法を犯しているものがいるなどと言うデマを流し、無実の罪を被せたのだ。
この処罰を受けたのは以下の人々である。
- 法然上人、ならびに弟子七人、流罪
- 弟子四人、死罪
法然上人(当時76歳)は土佐国幡多へ流罪。
罪人の名前として藤井元彦(ふじいのもとひこ)とされた。
親鸞聖人(当時35歳)は越後国へ流罪。
罪人の名前として藤井善信(ふじいのよしざね)とされた。
- 浄聞房→備後国へ流罪
- 禅光房澄西→伯耆国へ流罪
- 好覚房→伊豆国へ流罪
- 法本房行空→佐渡国へ流罪
成覚房幸西、善恵房も流罪とされていたが、無動寺の善題大僧正が身柄を預かったという。
流罪となったのは以上の八人である。
死罪となったのは、
- 善綽房西意
- 性願房
- 住蓮房
- 安楽房
以上の四名。
これらの刑は、二位法印尊長によってなされた。
先ほどにも挙げたように、親鸞さまの流罪が決まったとき、僧籍を剥奪され俗名を与えられた。
つまり、僧侶でもなく俗人でもない「非僧非俗」の身となられた。
以降は、「禿(とく)」の字を自分の姓とし、朝廷にも認められた。
その願い状がいまも外記(げき)庁に残っているらしい。
流罪以降は、親鸞さまはご自身の名を「愚禿親鸞」と書かれるようになった。
=====
この『歎異抄』は、わが浄土真宗にって最も重要な聖教である。
ゆえに、真剣に阿弥陀仏の教えを求めないものたちに、決して見せるべきではない。
ー蓮如ー
後序の原文を現代語訳で書き下し
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右条々は、みなもつて信心のことなるよりことおこり候ふか。
故聖人の御物語に、法然聖人の御時、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして御相論のこと、候ひけり。
そのゆへは、「善信(親鸞)が信心も、(法然)聖人の御信心も一つなり」と仰せの候ひければ、
誓観房・念仏房なんど申すま御同朋達、もつてのほかにあらそひたまひて、
「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と候ひければ、
「聖人の御智慧・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばこそ、ひがごとならめ。
往生の信心においては、全く異なることなし。ただ一つなり」と御返答ありけれども、なお
「いかでかその義あらん」といふ疑難ありければ、詮ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非をさだむべきに
て、この子細を申しあげければ、法然聖人のおほせには、
「源空が信心も如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。
さればただ一つなり。
別の信心にておはしまさんひとは、源空が参らんずる浄土へは、よもまひらせたまひさ候はじ」と仰せ候ひしかば、当時の一向専修の人々のなかにも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも、候うらんとおぼえ候ふ。
いづれもいづれも、繰り言にて候さへども、書きつけ候かきつけ候ふなり。
露命わづかに枯草の身にかかりて候うほどにこそ、あひともなはしめたまふ人々の御不審をもうけたまはり、
聖人の仰せの候ひしおもむきをも申しきかせまひらせ候へども、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにて 候はんずらめと、歎き存じ候ひて、かくのごとくの義ども、仰せられあひ候う人々にも、いひまよはされなんと せらるることの候はんときは、故聖人の御こゝろにあひかなひて、御もちゐ候う御聖教どもをよくよく御覧候ふべし。
おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候うなり。
権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人の御本意にて候へ。
かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふましく候う。
大切の証文ども、少々ぬきいでまひらせ候うて目やすにして、この書に添えまひらせて候うなり。
聖人のつねの仰には、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
と御述懐候ひしことを、
いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしつみつねに流転して、 出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。
さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。
まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。
聖人のおほせには、「善悪のふたつ総じてもって、存知せざるなり。そのゆへは如来の御心に善しとおぼしめすほどにしりとをしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもって そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。
まことに、われもひとも、そらごとをのみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふらうなり。
そのゆへは、念仏申すについて、信心のおもむきをもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、
ひとのくちをふさぎ、相論をたたんがために、まったく仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、
あさましく歎き存じ候うなり。
このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに候ふ。
これさらに、わたくしのことばにあらすずといへども、経釈の往く路もしらず、法文の浅深をこころえわけたる
ことも候はねば、さだめておかしきことにてこそ候はめども、古親鸞の仰せごと候ひしおもむき、百分が一つ、かたはしばかりをもおもひいてまひらせて、かぎつけ候うなり。
かなしきかなや、さひはひに念仏しながら、直に報土に生まれずして、辺地に宿をとらんこと。
一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなく筆をそめ、これをしるす。
なづけて『歎異抄』といふべし。
外見あるべからず。
流罪記録
後鳥羽院の御宇、法然聖人、他力本願念仏宗を興行す。
時に、興福寺の僧侶、敵奏の上、御弟子のなか、狼藉子細あるよし、無実風聞によりて罪科に処せらるる人数の事。
一 法然聖人ならび御弟子七人、流罪。
また御弟子四人、死罪におこなはるるなり。
聖人は土佐国[番多]といふ所へ流罪、罪名藤井元彦男云々、生年七十六歳なり。
親鸞は越後国、罪名藤井善信云々、生年三十五歳なり。
浄聞房 [備後国]、澄西禅光房 [伯耆国]、好覚房 [伊豆国]、行空法本房 [佐渡国]
幸西成覚房、善恵房二人、同じく遠流に定まる。
しかるに無動寺の善題大僧正、これを申しあづかると云々。
遠流の人々、以上八人なりと云々。
死罪に行はるる人々
一番 西意善綽房
二番 性願房
三番 住蓮房
四番 安楽房
二位法印尊長の沙汰なり。
親鸞、僧儀を改めて俗名を賜ふ。しかるあひだ、禿の字をもって姓となして、奏聞を経られをはんぬ。
かの御申し状、いまに外記庁に納まると云々。流罪以後、愚禿親鸞と書かしめたまふなり。
右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。
無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからずものなり。
[釈蓮如(花押)]
歎異抄(たんにしょう)後序を解説


歎異抄の後序は、ものすごく内容の濃いものです。
今なお、よく語り継がれるエピソードが2つ記されていましたね。
- いただく信心はみな同じ
- 弥陀五劫思惟の願
それぞれ、詳しく見ていきましょう。
①いただく信心に弟子も師匠もない


当ブログでも何度も書いてきました。
信心は、阿弥陀仏よりいただくものです
この言葉を素直に聞き入れれば、親鸞聖人の主張が決して間違ったものではないとすぐに理解できますよね。
しかし、法然上人のもとで長い間弟子としてそばにいたものでさえ、誤った理解をしてしまう。
つまり、私たちが生きている今現在の時代であっても、同じような誤解は生じるでしょう。
- お坊さんだから信心が深い
- 年配のお坊さんの方が信心が深い
- まだまだ子どもだから信心が浅い
- 手を合わしたこともないから信心が浅い
などの理解は、すべて誤解です。
信心に、浅いも深いもありません。
何度もお伝えしているように、信心は阿弥陀仏からいただくものだからです。
山頂から麓に向かって流れる川の水を想像してみてください。
どんな大きさであろうが、どんなに枝分かれしようが、水に変わりはありません。
一つの川だけ海水になる、なんてことはないのです。



信心もまったく同じなんです
性別、年齢、職業など、一切関係なし。
分け隔てることなくすべての人に平等に届けられるもの、これが阿弥陀仏の信心であると理解しましょう。
②弥陀五劫思惟の願





弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。
歎異抄の中でも、とくに有名な一文です。



ぼくも、この文章が大好きなんですよ
今一度、私訳をしてみると、
阿弥陀仏の力強いお誓いをよく考えてみると、親鸞わたし一人に向けられたものであった。
煩悩にまみれ、救いようのないこのわたし一人に。
なんともったいなく、ありがたいことである。
ここで書かれている”わたし一人”というのは、親鸞聖人が「自分一人だけ救われればよい」という自分勝手なものではありません。
この文章でいちばん重要なのは、
阿弥陀仏の誓いは、あくまでもわたし(あなた)一人に向けられたものである
ということ。
浄土真宗の教えをひと言で表現するとき、「みんな平等に救われていく」と言ったりします。
間違いなく正しい表現なのですが、もう一歩踏み込むべきなんですよ。
“みんな”というのは、あくまでも「わたし」「あなた」の集合体であるということ。
振り返ってみれば”みんな救われていた”というのが正しい味わい方です。
わたし一人、あなた一人のために、阿弥陀仏はとてつもなく長い間考え、「必ず救う」と誓われたと思うと、こんなにありがたいことはないですよね。
親鸞聖人の味わいのまま、わたしたちもこのお誓いを心から喜ぶべきではないでしょうか。
歎異抄(たんにしょう)後序についてのまとめ


歎異抄の後序は、単なる解説ではなく、唯円が命をかけて伝えようとした親鸞聖人の「信念の証」でもあります。
親鸞聖人はどれほど誤解されても、自らの信仰を曲げることはありませんでした。
そして、その教えを正しく受け継ごうとした唯円の覚悟が、この後序には強く刻まれています。
私たちがこの後序を読むとき、単なる歴史的な記録としてではなく、「信じるものを貫くとはどういうことか?」を問い直す機会として受け取ることができるのではないでしょうか。
長い記事を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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