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歎異抄から学ぶ人間関係:自己肯定感を高めるヒント

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ヨシボウ

こんにちは!
ヨシボウです

  • どうして、あの人は自分のことをわかってくれないんだろう…
  • SNSを見ると、みんなキラキラしていて、自分だけが取り残されているような気がする
  • もっと頑張らないと、誰にも認めてもらえないんじゃないか…

こんな風に人間関係で疲れたり、自分に自信が持てなくなったりしていませんか?

いつも周りの顔色をうかがい、他人の評価に一喜一憂してしまう。

そんな毎日を送っていると、心はすり減っていくばかりですよね。

実は、今から約800年も前に書かれた『歎異抄(たんにしょう)』という一冊の古典に、その苦しみからふわりと心を軽くしてくれる、温かいヒントが隠されているのです。

『歎異抄』と聞くと、「なんだか難しそう…」と感じるかもしれません。

でも、大丈夫。

この本に流れているのは、

「あなたは、あなたのままでいいんだよ」

という、どこまでも優しく、力強いメッセージなのです。

この記事をさいごまで読んでいただければ、『歎異抄』が示す智慧によって、人間関係が少し楽になり、自分のことをもっと好きになれるはず。

ぜひ、あなたの心を休ませるつもりで、ゆっくりとお付き合いください。

目次

なぜ、私たちは人間関係で疲れてしまうのか?

そもそも、なぜ私たちはこんなにも人間関係で疲弊してしまうのでしょう。

それはきっと、

無意識のうちに「自分の外側」に幸せの基準を置いてしまっているから

ではないでしょうか。

  • あの人から「いいね!」と言ってもらえたら、幸せ。
  • このグループで「デキるやつ」だと思われたら、安心。
  • 世間一般の「成功者」の型にハマれたら、価値がある。

このように、他人の評価や社会のモノサシを自分の価値基準にしてしまう。

自分で自分を認めるのではなく、他人からの承認を求めてしまうのです。

承認欲求は自力の心から生まれる

この状態を、歎異抄の教えでは「自力(じりき)」になぞらえることができます。

「自力」とは、文字通り「自分の力」で何かを成し遂げようとすること。

自分の力で認めさせよう、自分の頑張りで好かれようと、必死にもがいている姿。

でも、他人の心はコントロールできません。

だから、頑張れば頑張るほど、期待通りの反応が返ってこないと落ち込み、心が疲れてしまう。

まさに、終わりのないマラソンを走っているようなもの。

では、どうすればこの苦しいマラソンから降りることができるのでしょうか。

その答えが、『歎異抄』の中心的な教えに隠されています。

「ダメな自分」でいいじゃないか。「悪人正機」がくれる絶対的な肯定感

『歎異抄』の中で、もっとも有名で、そしてもっとも誤解されやすいことばがあります。

それが、第三条に出てくる「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」ということば。

現代語に訳すと、「善人でさえ救われるのだ。ましてや悪人が救われないわけがない」となります。

え?悪人が救われるってどういうこと?悪いことをした方がいいの?

そう思ってしまいますよね。

でも、まったく違うのです。

ここで親鸞聖人がいう「悪人」とは、なにも凶悪な犯罪者のことだけを指しているのではありません。

自分はとても善人だなんて胸を張れない。
心の中には、人には言えないような醜い感情や欲望が渦巻いている。
そんな弱い、ダメな人間です

そう自覚している、すべての人のこと。

つまり、ぼくや、あなたのことなのです。

私たちは、自分の”都合”で物事を判断しがちです。

自分にとって都合の良い人を「善い人」、都合の悪い人を「悪い人」と決めつけてしまう。

でも、それはとても自分勝手な見方ですよね。

阿弥陀さまという仏さまは、そんな私たちの表面的な行いではなく、心の奥の奥まで、すべてお見通しです。

そして、そんな煩悩まみれで、どうしようもなく不完全な私たちをこそ、「何とかして救ってやりたい」と願ってくださっている。

これが悪人正機の本当の意味です。

何かが「できる」から認められるのではありません。

何かの役に立つから価値があるのでもありません。

あなたが、あなたのままでいること、その存在そのものが、絶対的に肯定されている。

これって、ものすごいことだと思いませんか?

世間の評価や他人の目なんて、まったく関係ない。

あなたの存在そのものが、まるごと「OK」だと抱きしめられているのです。

これこそが、自己肯定感の揺るぎない土台となる考え方ではないでしょうか。

矢印の向きを逆にしてみる。「他力」という生き方のススメ

悪人正機の教えによって、「ダメな自分でもいいんだ」と少し肩の力が抜けたら、次にもう一歩、進んでみましょう。

それは、

矢印の向きを逆にしてみる

ということです。

『歎異抄』の第一条には、「弥陀の誓願(みだのせいがん)」ということばが出てきます。

これは、阿弥陀さまが私たちにかけてくださっている願いのこと。

普通、「願う」といえば、私たちが神仏に「お願いします!」と頼みごとをするイメージですよね。

一般的な救いのイメージ

しかし、浄土真宗の教えは、その矢印がまったく逆なのです。

私たちが願う前に、すでに阿弥陀さまの方から「あなたを必ず救う」と願われている。

浄土真宗の救いのイメージ

この、自分以外の大きなはたらきによって生かされているという考え方を「他力(たりき)」といいます。

他力のはたらきを人間関係に置き換えてみる

私たちはつい、「あの人に好かれたい」「この人に認めてほしい」と、自分から相手に向かって必死に矢印を伸ばそうとします(自力)。

でも、その矢印をいったん手放してみる。

そして、すでに自分に向けられているたくさんの矢印に気づくのです。

  • 家族がご飯を用意してくれること。
  • 友だちが「元気?」と声をかけてくれること。
  • 同僚が仕事を手伝ってくれること。
  • ただ、そこにいてくれる人がいること。

私たちは、決して一人で生きているわけではありません。

無数の縁と、他者からのはたらきかけの中で生かされている。

「私は大きな力によって救われているんだ」という安心感は、人間関係における過剰なプレッシャーや「〜〜しなければならない」という思い込みから、あなたを解放してくれます。

無理に自分を変えようとせず、大きな流れに身をまかせてみる。

それが「他力」という、とても軽やかな生き方なのです。

「親鸞は弟子一人ももたず」に学ぶ、しなやかな人との距離感

人間関係の悩みの一つに「執着」があります。

「この人から離れたくない」「このグループにずっと属していたい」という強い思いが、かえって自分を縛りつけてしまう。

そんなとき、ヒントになるのが第六条の親鸞聖人のおことばです。

当時、多くの人々から慕われていた親鸞聖人ですが、きっぱりとこう言い切ります。

親鸞は弟子一人ももたず候ふ
(わたしには、弟子など一人もいない)

そして、こう続けるのです。

人間というものは、縁があれば近づき、縁がなければ離れていくもの

なんとまぁ、しなやかな人間関係の捉え方でしょう。

親鸞聖人は、人と人との関係を、師弟という上下関係や、支配・所有の関係で捉えませんでした。

出会う人はみな、同じ道を歩む対等な仲間、「同朋(どうぼう)」。

だから、去っていく人を無理に追いかけたり、自分の元に縛り付けようとしたりしない。

縁があればまた会うし、縁が尽きれば自然と離れていく。それだけのこと。

この考え方は、現代の私たちにも大きなヒントを与えてくれます。

友だちや恋人、所属するコミュニティに執着しすぎず、変化を自然なこととして受け入れる。

そうすれば、人間関係はもっと楽になるはずです。

一人ひとりの縁を大切にしながらも、それに縛られない。

そんな軽やかな距離感が、あなたの心を自由にしてくれます。

究極の自己肯定感「親鸞一人がためなりけり」

『歎異抄』は、親鸞聖人が亡くなったあとに、弟子の唯円が師のことばを書き記したものです。

そのさいごの方(後序)に、ぼくがもっとも心を揺さぶられる一文があります。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり

これは、親鸞聖人が生前、よく口にされていた述懐です。

訳してみると、

阿弥陀さまが、とてつもなく長い時間考え抜いて立てられた“すべての人を救う”という誓いは、よくよく考えてみれば、他の誰のためでもない、この親鸞ただ一人のためであった。
なんともったいなく、ありがたいことだろうか

これは、究極の自己肯定感の表明だとぼくは思います。

阿弥陀さまの救いは、「みんな」に向けられた漠然としたものではない。

このわたし、あなたという、世界にたった一人しかいない存在にピンポイントで向けられている

というのです。

「みんな」という言葉の中に埋もれてしまうと、自分の存在はなんだか希薄に感じられます。

しかし、親鸞聖人はそうではないと教えてくださる。

宇宙的ともいえる大きなスケールの願いが、この「わたし」という一点に集中している。

この感覚を持つことができたなら、他人の評価に右往左往する必要がなくなるでしょう。

誰かに認められなくても、誰かに褒められなくても、自分という存在は、それだけで絶対的に価値があり、大切に思われている。

これ以上に力強い自己肯定感の源泉があるでしょうか。

まとめ:あなたは、あなたのままで大丈夫

ここまで、『歎異抄』の教えをヒントに、人間関係の悩みと自己肯定感について考えてきました。

『歎異抄』が800年ものときを超えて、今なお多くの人の心を惹きつけてやまないのは、そこに普遍的な人間の苦悩への答えが示されているからに他なりません。

  • 「ダメな自分」でいい。不完全な私をこそ、仏さまは抱きしめてくださる。(悪人正機)
  • 「好かれよう」ともがくのをやめてみる。私たちはすでに、大きな力に生かされている。(他力)
  • 人との縁は自然なもの。執着を手放せば、心は軽くなる。(弟子一人ももたず)
  • 仏さまの願いは、他の誰でもない「このわたし」に向けられている。(親鸞一人がためなりけり)

これらの教えはすべて、一つのメッセージに繋がっています。

それは冒頭にお伝えしたとおり、

「あなたは、あなたのままでいいんだよ」

ということ。

自分を無理に変える必要はありません。

他人と比べて落ち込む必要もありません。

あなたは、あなたという唯一無二の存在として、すでに尊く、かけがえのない光を放っているのです。

もしまた人間関係に疲れ、自分に自信をなくしそうになったときは、どうかこの『歎異抄』の温かいまなざしを思い出してください。

あなたの心が、少しでも軽やかになることを、心から願っております。

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