要約結果

こんにちは!
ヨシボウです
ぼくは浄土真宗の僧侶として、日々お参り先で様々な方とお話しする機会があります。
その中で、よく耳にする言葉があるんですよ。
わたしは信心深くないので……
あなたは、このことばを言ったことはありますか?
もしかしたら、他人のことを「あの人は信心深い」と思ったことがあるかもしれませんね。
一般的に、「信心(しんじん)」というものは、特定の宗教を深く信仰する心であったり、あるいは自分の努力や行いによって積み重ねられるものと捉えられがちです。
しかし、親鸞聖人が歎異抄を通して説かれた「信心」は、そのような常識的な理解とはまったく異なる、もっと深い意味を持っています。
今回は、歎異抄が解き明かす「信心」の本質に迫り、本当に信じるということについて、一緒に考えていきましょう。
さいごまでお読みいただければ、あなたの信心に対する見方がきっと変わるはずです。


- 浄土真宗本願寺派の現役僧侶
- ブログ歴3年、5サイトを運営
- 趣味はブログと読書と朝活
- マインドフルネススペシャリスト資格所持
信心は「いただくもの」という真実


親鸞聖人は歎異抄の第六条で、次のように仰っています。
信心は阿弥陀さまからいただいたもの
このことばを聞いて、どう感じるでしょうか?
多くの人が「自分の心から生まれるもの」と考える信心が、「いただくもの」であるというのは、少し意外に感じるかもしれません。
なぜ親鸞聖人は「いただくもの」と表現されたのか?
その理由を深掘りしていきましょう。
自分の力では生み出せない信心
もしも信心が、私たちの心から自力で生み出されるものだと考えてみてください。
「よし、今日から阿弥陀さまを信じよう!」
かなり大それた表現ですが、決意して信じようとしますよね。
しかし、人間というものは、自分の心ひとつさえも思うようにコントロールできないものです。
朝起きて「今日は一日、穏やかな心で過ごそう」と決意しても、ちょっとしたことでイライラしたり、落ち込んだりすることは日常茶飯事ですよね。
ましてや、目に見えない阿弥陀さまを「信じよう」と自分の力で信じ続けることは、至難の業だと思いませんか?
浄土真宗の教えでは、阿弥陀さまはすでに「すべての人を必ず救う」と約束してくださっています。
これは、私たちが阿弥陀さまを信じるかどうかにかかわらず、すでに差し伸べられている救いの手なのです。
つまり、「阿弥陀さまを信じます。だから救ってください」という私たちの願いが起点となるのではなく、「必ず救うから、まかせてね」と阿弥陀さまの方から呼びかけてくださっている、という関係性になります。


この阿弥陀さまからの呼びかけを受け取ったときに、私たちの心に自然と生まれるのが「信心」なのです。
だからこそ、信心は「自分の力で生み出すもの」ではなく、「阿弥陀さまからいただくもの」であると親鸞聖人は教えられました。
信心に「浅い」「深い」はない


信心が阿弥陀さまからいただくものであるという理解に至ると、もうひとつ重要なことが見えてきます。
それは、「信心に浅いも深いもない」ということです。
- 「あの人は熱心だから信心深い」
- 「わたしはなかなかお寺に行けないから信心が浅い」
といった見方は、一般的な感覚では理解できます。
しかし、阿弥陀さまから一方的に与えられる信心に、量的な違いがあるはずがありません。
たとえば、誰かにプレゼントをもらったとします。
そのプレゼントの価値は、受け取った人の「受け取り方」によって変わるでしょうか?
プレゼントの価値は、プレゼントそのものにありますよね。
それと同じで、阿弥陀さまから与えられる信心は、常に完全な形で私たちに届けられています。
私たちは、阿弥陀さまの呼びかけに対し、すなおに「ありがとうございます」と受け取るだけで良いのです。
そこに、私たちの努力や行いはまったく必要ありません。
これが、親鸞聖人が私たちに伝えようとした「他力の信心」なのです。
信心は「感謝のこころ」の現れ


信心が阿弥陀さまからの「いただきもの」であるならば、私たちの心にはどのような変化が起こるのでしょうか。
それは、「感謝のこころ」が自然と湧き上がってくる、ということです。
人は、誰かの優しさや、ありがたいことに気づいたときに、感謝の気持ちが生まれますよね。
感謝の気持ちが起こるには、かならず起点となる「何か」が必要です。
信心もまったく同じなのです。
阿弥陀さまが、私たちが生まれるはるか昔から、とてつもない長い時間をかけて私たちを救う方法を考えてくださり、そして「必ず救う」と誓ってくださった。
この計り知れないご恩に気づいたとき、私たちの心には、ただただ「ありがたい」という感謝の気持ちが溢れてくるのです。
この「阿弥陀さまからの呼びかけに対する感謝の気持ち」こそが、親鸞聖人の仰る「本当の信心」であるとぼくは受け止めています。
念仏は「感謝のあらわれ」
歎異抄の第八条では、念仏について親鸞聖人が次のように仰っています。
念仏は、行者のために非行非善なり。
これは「念仏を称えることは、自分の修行のためでもなければ、善い行いでもない」という意味です。
自分の行いではない、となると、では念仏はどのように私たちの口から出てくるのでしょうか?
親鸞聖人のお考えでは、念仏は「阿弥陀さまの他力によって口から出てくるもの」だとされています。
まるで、嬉しいときや悲しいとき、悔しいときに自然と涙がこぼれ落ちるように、私たちの口から「南無阿弥陀仏」と念仏がこぼれ出てくるのです。
これは、自分の意思や努力によって生み出されるものではありません。
阿弥陀さまのお救いがありがたくて、感謝の気持ちが溢れて、つい口から出てきてしまうもの。
これが、浄土真宗における念仏の姿なのです。
このように考えると、念仏の「数」にこだわる必要もありません。
歎異抄の第十四条でも、親鸞聖人は念仏の回数によって罪が消えたり、往生が約束されたりするものではないと明確に否定されています。
一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。
この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、はじめて善知識のをしへにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。
これは、十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といへるか、滅罪の利益なり。
いまだわれらが信ずるところにおよばず。
たとえ一度の念仏であろうと、百回の念仏であろうと、そこに込められるのは、阿弥陀さまのご恩に対する感謝の気持ちなのです。




煩悩を抱えた「そのまま」を信じる


親鸞聖人は、私たちを「煩悩具足の凡夫」と表現されました 。
これは、欲望や怒り、愚痴など、様々な煩悩を抱えたままの、完璧ではない人間こそが、まさに救いの対象であるという教えです。
私たちの心には、阿弥陀さまが本当に救ってくださるのか、わたしのような人間が救われるのかといった疑いや不安が生まれることがあります。
しかし、このような疑問や煩悩を抱えていることこそが、私たちが「煩悩具足の凡夫」である証拠であり、阿弥陀さまが救いたいと願われた対象なのです 。
不安や疑いがあることは決して悪いことではありません。
むしろそれが阿弥陀さまのお慈悲に出遇う縁となるのです 。
悪人正機の真意
歎異抄の中で最も有名な「悪人正機」という言葉も、この「煩悩具足の凡夫」という親鸞聖人の人間観に基づいています 。
親鸞聖人は「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」と仰いました 。
この言葉は、「悪いことをした方が救われやすい」という意味ではありません 。
歎異抄第十三条では、この誤解を「本願ぼこり」と呼び、強く否定されています 。
親鸞聖人は、善い行いも悪い行いも、自分の意思だけで起こるものではなく、過去の宿業によるものであると説かれました 。
人間は自分の心一つで善悪を完全にコントロールすることはできず、縁があればどんな罪でも犯してしまう可能性を秘めているのが本質です 。
阿弥陀さまは、そうした私たち人間の本質をすべて見抜いた上で、「どんな者であっても必ず救う」と願われました。
ゆえに「悪人」とは、自分自身の煩悩や罪深さを深く自覚した者のことであり、そのような者こそが、阿弥陀さまの救いを「そのまま」受け取ることができる真の対象なのです 。




信心がもたらす「心の平安」
歎異抄の教えは、私たちに「完璧でなければならない」という重圧から解放を与えます 。
自分の至らなさや弱さを受け入れ、そのままの姿で阿弥陀さまに身をゆだねることこそが、他力の信心のあり方です 。
私たちは、日々の生活の中で、様々なプレッシャーやストレスに晒されています。
もっと頑張らなければ、、、
もっと良い結果を出さなければ、、、
という思いに押しつぶされそうになることも少なくありません。
そんなとき、歎異抄が解き明かす信心の本質は、私たちに大きな安心を与えてくれるでしょう 。
自分の力だけを頼りにせず、阿弥陀さまの大いなる力に身をゆだねることができれば、その安らぎは単なる諦めや無気力にとどまりません 。
むしろ、自己の限界を認め、大きな存在にすべてをゆだねることで、かえって心の自由と平安を得ることができるのです 。
まとめ


歎異抄が解き明かす「信心」の本質は、私たちの常識的な理解とはまったく異なる、奥深いものでした。
さいごにまとめます。
- 信心は「いただくもの」:
自分の努力や行いによって生み出すものではなく、阿弥陀さまからの呼びかけによって与えられるものです。 - 信心は「感謝のこころ」:
阿弥陀さまの計り知れないご恩に気づいたときに、自然と湧き上がる感謝の気持ちが信心の現れです。 - 「そのまま」を信じる:
煩悩を抱えた完璧ではない私たち「煩悩具足の凡夫」こそが、阿弥陀さまが真っ先に救いたいと願われた対象であり、不安や疑いがあること自体が、阿弥陀さまの救いをいただく縁となるのです。
親鸞聖人が私たちに伝えようとした信心は、自分の力で「信じよう」とすることではなく、阿弥陀さまのお慈悲によって「信じさせていただく」という、まさに他力の信心です。
この信心は、私たちを完璧でなければならないという重圧から解放し、ありのままの自分を受け入れることを教えてくれます。
そして、そのことによって、私たちは真の心の平安を得ることができるのです。
このご縁を通して、あなたが「本当の信心」に触れ、日々の生活に安らぎと喜びを感じていただければ、ぼくもうれしく思います。
さいごまでお読みいただき、ありがとうございました。
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