要約結果

こんにちは!
ヨシボウです🎵
歎異抄(たんにしょう)って、なんだか難しそう…
原文は古文だし、意味が分かるか不安だ…
そんなふうに感じているあなたへ。
『歎異抄』に込められた親鸞聖人(しんらんしょうにん)の深いメッセージは、実は現代の私たちの心にもまっすぐ届く、力強い言葉に満ちあふれています。
本記事では、『歎異抄』の中でも特に心に響く珠玉の言葉をピックアップし、初心者の方でもスラスラと読める現代語訳でご紹介。
そして、その背景にある親鸞聖人の想いや教えを、専門用語を避けて、やさしく解説していきます。
さあ、時を超えた親鸞聖人の言葉に、あなたの心で触れてみませんか?
きっと、日々の悩みや迷いがふっと軽くなるような、温かい発見があるはずです。


- 浄土真宗本願寺派の現役僧侶
- ブログ歴3年、5サイトを運営
- 趣味はブログと読書と朝活
- マインドフルネススペシャリスト資格所持
なぜ『歎異抄』は現代語訳で読むのがおすすめ?


『歎異抄』に触れる第一歩として、なぜ現代語訳がおすすめなのでしょうか?
その理由と、現代語訳を選ぶ際のちょっとしたヒントをお伝えします。
原文の魅力と、現代語訳の役割
もちろん、『歎異抄』の原文である古文には、その時代ならではの言葉の響きや、凝縮された表現の美しさ、そして奥深い魅力があります。
しかし、その言葉の壁によって、せっかくの親鸞聖人の大切なメッセージが、現代を生きる私たちに十分に伝わらないとしたら、それはとてももったいないことですよね。
現代語訳は、まさにその言葉の壁を取り払い、親鸞聖人の教えや心を、私たちの日常の言葉でダイレクトに届けてくれる「架け橋」のような役割を果たしてくれます。
古文の知識がなくても、まるで親鸞聖人がすぐそばで語りかけてくれているかのように、そのメッセージを受け取ることができるのです。
現代語訳を選ぶ際の小さなヒント
今では、本当にたくさんの種類の『歎異抄』現代語訳本が出版されています。
どれを選べばいいか迷ってしまうかもしれませんが、いくつかのポイントを参考にしてみてください。
- 解説の丁寧さ:言葉の背景や、親鸞聖人の思想について、分かりやすく解説してくれているものがおすすめです。
- 言葉遣いの相性:翻訳者によって、少しずつ言葉遣いやニュアンスが異なります。自分が読んでみて、「あ、この表現はスッと心に入ってくるな」と感じるものを選んでみましょう。
- 読みやすさ:文字の大きさやレイアウトなども、意外と大切です。パラパラとめくってみて、心地よく読み進められそうなものを見つけてください。
ぼくがとくにおすすめしたいのが「私訳 歎異抄」(五木寛之著)です。
ものすごくわかりやすくて読みやすい。
浄土真宗はもちろん、仏教の初学者であっても、すっと理解できることばで書かれていますよ。
ぜひ読んでみてくださいね。
色々な現代語訳を読み比べてみるのも、それぞれの翻訳者の解釈の違いが分かって面白いです。
『歎異抄』珠玉の言葉集~現代語訳とやさしい解説~


それでは、いよいよ『歎異抄』の心揺さぶる言葉たちを、ぼくの現代語訳と解説でご紹介します。
ここでは、特に親鸞聖人の教えの核心に触れることができる、いくつかの有名な一節を取り上げました。
- 【序文より】異説をなげき、真実を伝えたい~唯円の切なる願い~
- 【第一条より】阿弥陀さまの誓いを信じる、ただそれだけで~他力の信心とは~
- 【第三条より】師匠も弟子もいない?~親鸞聖人のフラットな関係性~
- 【第六条より】善人ですら救われる、まして悪人は…~衝撃の「悪人正機」~
それぞれ、ざっと解説しますね。
【序文より】異説をなげき、真実を伝えたい~唯円の切なる願い~
まずは、『歎異抄』がなぜ書かれたのか、その冒頭に記された作者・唯円(ゆいえん)の思いに触れてみましょう。
原文(書き下し文の例)
「ひそかに愚案(ぐあん)をめぐらし、いささか旧聞(きゅうぶん)をのこすことしかり。ひとえに同心行者(どうしんあんじゃ)の不審(ふしん)をさんぜんがためなり。ついにはたいする異義(いぎ)のおこらんことを歎念(たんねん)す。」
現代語訳
「わたくし自身の未熟な考えではありますが、かつて親鸞聖人から直接お聞きした尊いみ教えのいくつかを、ここに書き残すことにいたしました。
それはただもう、同じ信心を生きる仲間たちが抱いているかもしれない疑問を解消するためです。
そして何よりも、将来、親鸞聖人の真実の教えとは異なる異説が出てくるのではないかと、深く憂えているからなのです。」
やさしい解説
この序文には、作者とされる唯円の切実な思いが込められています。
親鸞聖人が亡くなられた後、その教えが誤って解釈されたり、異なる意見(異義)が出てきたりすることを、唯円は心から心配しました。
「愚案(ぐあん)」とは「自分の愚かな考え」、「旧聞(きゅうぶん)」とは「昔聞いたこと」という意味で、唯円の謙虚な姿勢がうかがえます。
しかしその奥には、「親鸞さまが本当に伝えたかったのはこれなんだ!」という強い確信と、真実の教えを後世に正しく伝えたいという熱い使命感が燃えているのです。
私たちが今、『歎異抄』という素晴らしい書物に触れることができるのは、この唯円の純粋で強い思いがあったからこそ、と言えるでしょう。


【第一条より】阿弥陀さまの誓いを信じる、ただそれだけで~他力の信心とは~
続いては、親鸞聖人の教えの根幹である「他力(たりき)」の信心が、喜びをもって語られる第一条の一節です。
原文(書き下し文)
「弥陀(みだ)の誓願(せいがん)不思議(ふしぎ)にたすけられまいらせて、往生(おうじょう)をばとぐるなりと信(しん)じて念仏(ねんぶつ)申(もう)さんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にあずけしめたまうなり。」
現代語訳
「阿弥陀さまの不可思議な本願のお力によってお助けいただき、必ず極楽浄土へ往き生まれることができるのだと信じて、『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』とお念仏を申そうという心が起こったその瞬間に、阿弥陀さまは私たちをその光明の中にしっかりと摂(おさ)め取って、決して見捨てないという大きな恵みにおあずけくださるのです。」
やさしい解説
これは、親鸞聖人の教えのエッセンスが凝縮されたようなことばです。
ポイントは以下の3つ。
- 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて:
私たちの救いは、自分の力(自力)によるものではなく、阿弥陀さまの「すべての人を必ず救う」という誓い(本願)という、人間には計り知れない不思議な力(他力)によって成り立つのだ、ということです。 - 信じて念仏申さんと思い立つこころのおこるとき:
難しい修行や学問、立派な善行が必要なのではありません。
「阿弥陀さまの救いを信じます、お念仏します」という心が、ほんの少しでも私たちの中に芽生えた、まさにその時。 - すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり:
「摂取不捨」とは、阿弥陀さまが、私たちをその慈悲の光明でガッチリと抱きしめて、決して見捨てず、必ず浄土へ導いてくださるという、絶対的なお約束のことです。
その大きな安心感に包まれるのです。
「何かを成し遂げたから救われる」のではなく、「救われているから、お念仏が自然と口をついて出る」。この順番が、親鸞聖人の教えの大きな特徴です。


【第三条より】善人ですら救われる、まして悪人は…~衝撃の「悪人正機」~
『歎異抄』の中でも、最も有名で、そして多くの議論を呼んできたのが、この「悪人正機(あくにんしょうき)」を端的に示す一節です。
原文(書き下し文)
「善人(ぜんにん)なほもて往生(おうじょう)をとぐ、いはんや悪人(あくにん)をや。」
現代語訳:
「(自分の行いを頼りとするような)善人でさえも、阿弥陀さまの本願のお力によって極楽往生を遂げるのです。
ましてや、自分は煩悩にまみれ、自分の力ではどうすることもできない罪深い存在であると自覚している悪人が、阿弥陀さまのお救いの本当の目当てとならないはずがありましょうか(いや、必ず救われるのです)。」
やさしい解説
このことばは、文字通りに読むと「悪いことをした方が救われるのか?」と誤解されがちですが、決してそういう意味ではありません。
ここでいう「悪人」とは、単に道徳的に罪を犯した人というよりも、自分自身の力ではどうにもならない深い煩悩(ぼんのう:欲望や怒り、愚かさなど)を抱え、罪を犯さずにはいられない私たち人間のありのままの姿を指しています。
親鸞聖人は、自らを「善人」とうぬぼれる人より、むしろ自身の弱さや罪深さを深く自覚し、阿弥陀仏の救済にすがるしかないと感じる人こそ、その無条件の慈悲をまっすぐに受け取れる、と述べています。
これは、「悪いことをしてもいい」という免罪符などではなく、自分のどうしようもなさを知ることから始まる、深い謙虚さと、阿弥陀さまへの絶対的な信頼を表す、非常に逆説的で力強いメッセージなのです。


【第六条より】師匠も弟子もいない?~親鸞聖人のフラットな関係性~
親鸞聖人の独特な人間観、師弟観がうかがえる、印象的なことばです。
原文(書き下し文)
親鸞(しんらん)は弟子(でし)一人(いちにん)ももたずそうろう。
そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏(ねんぶつ)をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。
弥陀(みだ)の御もよおしにあずかって念仏もうしそうろうひとを、わが弟子と申(もう)すこと、きわめたる大おこがましきことなり。
現代語訳:
この親鸞は、弟子などただの一人も持っておりません。
なぜなら、もし私自身の力や計らいによって、他の人に念仏を申させるようにできたのであれば、その人は私の弟子と言えるかもしれません。
しかし、とんでもないことです。
人が念仏を申すようになるのは、すべて阿弥陀さまのお導きによるのですから、そのような尊いご縁で念仏される方を捕まえて、自分の弟子だなどと言うのは、この上なくおこがましいことなのです。
やさしい解説
当時の宗教指導者としては、かなり斬新で謙虚なことばですよね。
親鸞聖人は、誰かに教えを説き、念仏を勧めることはあっても、その人が念仏するようになるのは自分の力ではなく、すべて阿弥陀さまの働き(御もよおし)によるものだと考えていました。
だから、教える側と教えられる側という上下関係ではなく、同じ阿弥陀さまの救いを信じ、共に念仏する仲間「御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)」として、すべての人々とフラットに向き合おうとされたのです。
この言葉からは、権威を振りかざすことを嫌い、どこまでも他力を重んじ、人々と同じ目線に立とうとした親鸞聖人の温かい人柄が伝わってきます。
現代の私たちにとっても、人間関係やリーダーシップのあり方を考える上で、多くのヒントを与えてくれるのではないでしょうか。


現代語訳で『歎異抄』に親しむということ


ここまでいくつかの言葉をご紹介しました。
現代語訳を通して『歎異抄』に触れるとは、どういうことなのでしょうか。
言葉の奥にある「心」を感じる
現代語訳は、あくまで親鸞聖人の言葉を理解するための「入り口」です。
大切なのは、翻訳された言葉の表面だけをなぞるのではなく、その言葉の奥にある親鸞聖人の「心」、唯円の「思い」を感じ取ろうとすることです。
そのためには、『歎異抄』が書かれた時代背景や、親鸞聖人がどのような生涯を送られたのかを知ることも、きっと理解を深める大きな助けになるでしょう。
自分の人生と重ねて読む
『歎異抄』の言葉は、700年以上もの時を超えて、今を生きる私たちの具体的な悩みや疑問、心の渇きに、不思議と光を当ててくれます。
ぜひ、読んだ言葉をあなた自身の日常生活や、これまでの人生経験、今抱えている感情と照らし合わせてみてください。
ああ、これはまさに自分のことを言っているのかもしれない…。
あの時のあの気持ちは、こういうことだったのか…。
そんなふうに、自分の人生と『歎異抄』の言葉が響き合う瞬間が、きっと訪れるはずです。
それこそが、『歎異抄』が長く読み継がれてきた理由の一つなのだと、ぼくは思います。
おわりに:『歎異抄』はあなたに語りかける


『歎異抄』の現代語訳は、親鸞聖人の温かくも鋭い、そして力強いメッセージを、時と言葉の壁を超えて、私たちのもとへ届けてくれる、まるで魔法の翻訳機のようなものです。
本記事でご紹介できたのは、広大で深遠な『歎異抄』の世界の、ほんの入り口です。
しかし、少しでも「もっと知りたい」「読んでみたい」と感じていただけたなら、これほど嬉しいことはありません。
ぜひ、あなた自身の手で、現代語訳の『歎異抄』を開いてみてください。
そして、そこに記された一つひとつの言葉と、ゆっくりと対話する時間を持ってみましょう。
そこには、きっとあなたの心を深く揺さぶり、日々の生きる力や勇気を与えてくれる、かけがえのない言葉との出会いが待っているはずです。
このささやかな解説が、あなたと『歎異抄』との素晴らしい出会いの、最初の一歩となることを心から願っています。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
コメント